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大吉原展|芸も教養もない〝単なる娼婦〟はなぜ軽視されるのか? 瀧波ユカリ氏、福田和子氏の動画を観終えて

『大吉原展』の動向を受けて

今月3月26日に会期が迫る美術展『大吉原展』(以下、本展)の論争が続いている、と書きたいところだが、少なくともSNS上ではすっかり沈静化の兆しを見せている。

2月9日、私はアートメディア『Tokyo Art Beat』へ寄稿した。本展会期前であることから、まずは従来の公共施設が遊廓をはじめとする性売買の歴史や文化をどのように展示してきたのかについて、近年の動向を中心に紹介した。

本稿では、本展の論争に関連した動画を視聴した私の感想と、本展に向けた批判が無効化されている現状を検討する。後者については、いまだ私の考えは定まっていない。書くことで答えに近づこうとする試みだが、浅学の誹りを恐れず書いてみたい。


瀧波ユカリ氏と和田和子氏の動画を観て

2月15日、本展のありかたを批判して議論の起点をつくった瀧波ユカリ氏(漫画家)と、福田和子氏(SRHRアクティビスト)がYouTube上に『「大吉原展」開催前に吉原遊郭を学ぶ』と題した動画を公開した。(現在は有料メンバー限定公開)

これを拝聴した。動画の構成は、前半では福田氏が前提知識となる吉原遊廓の歴史をレクチャーし、後半では瀧波氏が本展ステートメントの読み解きをレクチャーした。私は時間的制約から、ところどころ割愛し、倍速で視聴した。

瀧波氏による、当事者を不可視化したステートメントを指摘する捌きも勉強になった。そして私個人の感想としては、福田氏の以下発言が心に残った。

(本展に、遊女の歴史を)文化的な高尚なものにしたいという意識を感じた。明治以降、(遊女は)醜業婦、賎業婦、転落など酷いネーミングをされてきた存在だが、まだまだここまで追いやられてしまうのか。
『大吉原展』の反応で「文化といっても詰まるところ売春婦じゃん、売春宿じゃん」というコメントを見るのも辛かった。
文化は上で、偉くて、それ(売春婦)は下に見る。そこにいる人間が培ったものすべてが隠すべき無価値なもの、というのも悔しい。

前掲動画中の福田氏の発言を筆者が文字起こし。括弧と太字は筆者処理

上記引用は、あくまで私が口語調のものを書き起こした文章であり、福田氏の意図を完全に汲み取れているか保証はできない。加えて、私は福田氏を代弁する意図はなく、以下は福田氏の発言を受けて、あくまで私なりの考察として述べる。

それまでの整然とした歴史紹介や意見交換に比して、上記コメントを述べるときの福田氏は、やや言葉に詰まりながら文章を紡いでいる印象に映った。そのぎこちなさから、ともすれば福田氏の発言はこう映ったのではないか。「醜業婦」と扱われた過去を嘆きながら、いっぽうで遊女を文化的に扱うことに反対するのは矛盾している。ようやく遊女が文化の担い手であった側面が再評価され、救われるのに、悲惨な側面ばかり強調したいのか?と。

私はこうした見方に首肯できず、たとえ、ぎこちなさが残ろうとも、福田氏の姿勢が明確に表れていて、私にはどのパートよりも強く印象に残った。福田氏に深く共感した。その理由を以下に示していきたい。

本展は会期前ゆえ、本展の方向性を探る手掛かりになることを期待して、私は本展顧問を務める田中優子氏の近刊『遊廓と日本人』(2021年、講談社)を読み返した。本展ステートメントは、一読すれば明らかなように本書に大きく依拠している。

本書の大半を占める吉原遊廓の歴史的変遷や同遊廓が育んだとされる文化の具体例は、今の私には興味外であったので読み飛ばした。序文「はじめに」と終章「遊廓をどう語り継ぐべきか」のみ目を通した。章タイトルから察して、田中氏による価値判断が多く含まれるものと推察したからだ。

田中氏は本書を刊行する理由に、現代人が遊廓に対して持ってしまいがちな誤解に以下を挙げている。私はここに戸惑い以上のものを覚えた。

「大正・昭和の吉原のイメージから、単なる娼婦の集まる場所と考える誤解」

田中優子『遊廓と日本人』6p、太字処理筆者

「単なる娼婦」をどう捉えれば良いのか。職業的特徴のみ取り出して、価値判断を留保する語義での「娼婦」とも理解できるが、本文では続いて「遊廓は日本文化の集積地」であると説明され、和歌・三味線・日本髪などを日本文化を列記して、遊廓が文化の土壌、遊女が文化の担い手であることと示している。したがって「単なる娼婦」とは芸を持たず教養のない性売買業に従事する女性を指し、「芸能・教養を持つ遊女」と対置したものと理解できる。

同じ序文で、田中氏は遊廓を過去のジェンダー問題として考えるのみならず、いまだ克服できずにいる近年の女性差別問題を挙げて、今日におけるジェンダーの問題と繋げて考えることの重要性を説いている。遊廓とは、遠い過去にあった社会の出来事ではなく、現代に続く社会課題であると自ら説きながら、ジェンダー問題の名の下に「芸や教養を持つ女」「芸も教養もない女」に二分するのは、他でもない田中氏である。

ふしだらな女、ちゃんとした女

私は、藤目ゆき氏(歴史学者)が示した次の指摘を思い出した。

女性抑圧社会には普遍的なことだが、女性を「ふしだらな悪い女・売春婦」と「ちゃんとした女性・良家の子女」に二分化するような差別的女性観は日本にも根深い。その二分法はあらゆるところで顔を出(す)

藤目ゆき『「慰安婦」問題の本質』p24

これは藤目氏の著書『「慰安婦」問題の本質』(2015年、白澤社)で慰安婦問題を論じた一節である。本稿の読者には、一見、近代の慰安婦と近世の遊女との関わりは薄いようにみえるであろうから、少々補足する。

慰安婦問題が大きく取り沙汰された1990年代から四半世紀以上を経た現在もなお「当時、売春は合法だったのだから、慰安婦も問題にならない」との言説がある。これに対抗して元慰安婦女性を支援する側が用いる反論に「当時、売春を認める公娼制度下にあるのは公娼(遊女)であり、慰安婦は制度外の性売買であるから問題である」とする、一見もっともらしい言説がある。しかしこれは「公娼制度に対する批判がおおむね脆弱で、時には肯定的でさえある」と藤目氏は指摘する。

形式的差異で公娼と慰安婦を峻別する二分法それ自体が、既に差別的女性観に絡め取られているおそれへの指摘である。「娼婦は女ではないのか?」と藤目氏は切り返し、さらに以下と重ねる。

現在の研究者が「売春婦」を侮蔑し「無垢な犠牲者」に同情するという、当時も今も社会に支配的な差別的女性観に対して、批判的視点を確立する(ことが慰安婦問題の本質)

藤目前掲書p50、括弧は筆者註

本稿に差し戻せば、芸や教養を持たない性売買女性を「単なる娼婦」と軽視し、「芸能の才能や教養豊かな遊女」を持ち上げるまなざしそれ自体が、差別的女性観から生み出されたものではないか。

「遊廓や遊女が文化を担った側面があるのは事実なのだから、文化面から遊女に光を当てるのがなぜ悪い?」「『単なる娼婦』は軽視ではなく、純粋な区別だ」との異論もあろう。

私は2点から問い掛けたい。

田中氏前掲書では自ら「ほとんどの女性は遊女を仕事として選ばないであろう」「女性は仕事という側面において、なぜこうも選択肢が少ないのか?」(田中氏前掲書)と述べながら、主体性が奪われ強要された仕事や職業に就いた女性のうち、文化を身につけて成功した者だけに光を当てることが正しいのか?

次も田中氏自らの指摘だが、「豪華と活気を支えるために、多額のお金を払う人がいました。(中略)お金を受け取るのは遊女ではありません」(田中氏前掲書)と説明している。であるならば、芸能や教養を身につけても受益者にはなれない遊女がなぜ身につけようとしたのか、身につけざるを得なかったのか、が問われるべきである。これを等閑に付したまま、受益者側が「文化」と見做した文化なるものを無批判に受け入れることは正しいのか?*1

「単なる娼婦」にもう少しこだわりたい。

本展のありかたに、性風俗業従事経験のある女性らが抗議あるいは遺憾とする声が少なからず散見された。そのうちの一人、色街写真家・紅子氏は自身の動画やSNSを通じて、「現代の吉原は存在していないことになっている。とても残念です」と訴えた。

これを「大吉原展は、江戸期をテーマとしているのだから的を射ていない」と対象時代を理由に退けるのが正しいだろうか。これまで遊廓を扱う展示やメディアなどは〝余計なクレーム〟を避けるために、逆算式に江戸期に限定する欺瞞を抱えてきたのではないか。対象時代から現代が除外されているからこそ、これまで〝余計なクレーム〟扱いされてきた人々が声をあげていることを認識したい。

江原由美子氏(社会学者)は、従軍慰安婦を「汚れた売春婦」扱いして彼女らの主張を退けようとする言説に対抗して以下のように述べた。

元「慰安婦」の人々への「侮辱」になるとすれば、それは元「慰安婦」の女性たちを「汚れた売春婦」と同一視してしまうという理由によるのではない。問題は(中略)「汚れた売春婦」といった観念の背後にある、「性的陵辱を受けた女性は汚れている」「売春をする女性は、道徳的に堕落している」「性的陵辱を受ける女性は、本人にも責任がある」などの女性観・性暴力観(に理由がある)

江原由美子「『従軍慰安婦問題』の教科書記載問題によって精神的にいじけさせられる『日本人』とは、だれのことか?(『情況』〈1997年4月号、情況出版社〉所収)」、丸括弧筆者注

「芸や教養を持った遊女」あるいは「遊女は単なる娼婦ではない」と遊女を持ち上げることが、現代の性風俗業従事経験のある女性を傷つける理由は、「単なる娼婦」に江原氏が示した先の女性観が内在するからである。同じ観念が、一方を「芸や教養豊かな遊女」と相対的に持ち上げ、もう一方を「単なる娼婦」と無視してよしとする不均衡を生み出している。

「遊廓は二度とこの世に出現すべきではない」ならば

田中氏前掲書では、序文で以下と宣言されている。ちなみに書籍では太字で処理され、田中氏の強い意思が窺える。

遊廓は二度とこの世に出現すべきではなく、造ることができない場所であり制度である

田中前掲書、p3

これは田中氏が顧問を務める本展ステートメントにも援用されている。

<『大吉原展』の公式サイトから。緑下線は筆者処理>

遊廓を扱うとき、とりわけ商業出版といった不特定多数が目に触れる場面では、書き手は慎重を期すため、冗長と引き換えにしても配慮を添える。それは丁寧な仕事でもある。

が、この2つの宣言は配慮にならず、親切ごかしに私には映る。反省を掲げて女性に寄り添う素振りを見せながら、その実、本書は選択の余地なく就くしかなかった女性を能力主義で選別し、結果劣った者を「単なる娼婦」扱いする。

本当に「二度と出現すべきではない」と反省の立場に立つのであれば、一部の成功者に光を当てることよりも、制度やそれを許した私たちの社会に非難の目を向けるべきではないか。仮に江戸吉原の文化にのみ光を当てたいのであれば、わざわざこうした宣言など要らない。

動画中における福田氏の発言に差し戻せば、仕事の選択肢が少ない時代や状況下にたまたま生まれ、遊女であろうとも生き延びようと足掻いた先で、さらには芸や教養のふるい別けで「まだまだここまで追いやられて」、分断されるという、遊女に留まらず女性全体に向けられた差別意識への嘆きではないか。


次に、批判が無効化されている状況と、批判方法について検討してみたい。Tokyo Art Beatに寄稿したときから、どのように批判すべきか考えてきた。

本展に批判を加える、少なくない側は、「悲惨な実態があった遊廓を、本展は美化するものだ」との主張のもと、「悲惨な実態」を列挙する言論を極めて多く見掛ける。2月28日に公開された北原みのり氏による考察では「暴力による管理が公に認められていたので、激しい折檻が日常的に行われていた」と、管理売春を認める権力的暴力性と、日常的な折檻の暴力という、因果関係の文意が掴みづらいままの主張が述べられていた。*2

書き進める上で、遊廓で常態化していた悲惨な実態の一面に言及する必要に迫られることもある。その意味で北原氏の主張は因果関係に曖昧さを残しながらも、目配りが充分利いたものであった。ただし、前述のように「悲惨な実態」を列挙して美化を指摘することが、真に反論足り得るだろうか。

本展は多くの批判を受けて、公式サイトを修正して、2月8日に「『大吉原展』の開催につきまして」と称した二度目のステートメントを公開した。そこでは、遊廓の歴史を「負」とする一歩踏み込んだ記述が見られるものの、ステートメント末尾「本展では、決して繰り返してはならない女性差別の負の歴史をふまえて展示してまいります」と、改めて展示意思を表明した。「それはそれとして、文化が醸成されたことも事実」と読める。

先の動画では、ステートメントに当事者が不可視化されている、という看過できない重要な問題点を瀧波氏が読み解いた。が、仮に当事者が明示されていたとしても、「それはそれ」が有効な限り、本展が明るい側面を強調する態度は変わらないのではないか。二度目のステートメントがそれを示唆している。「負の歴史」と「文化」が分離可能なものとして扱われる限り、どれほど酷い実態を、どれほど多く列挙しようとも、二度目のステートメント以上のものは望めない。

私が考える採るべき批判は、先の動画を観た感想と同じものである。「女を分断するな」ではないか。

もう少し丁寧な表現を試みる。「二度と繰り返してはならない、と反省の立場に立つのであれば、まずは文化認識を再構築すべきである。誰にとっての文化なのか?(=含まれないのは誰なのか?) この再構築を棚上げしたまま当時の受益者と同じ視線で『文化』と扱うことは、受益者側からみた二分化『成功した女』と『失敗した女』の再現である。文化の名の下に女を分断することは許されない」


おわりに

つい先頃、とある浮世絵美術館の関係者が私が経営する遊廓専門書店カストリ書房に来店して下さった。やはり本展が話題にあがり、あれこれと会話する中「『大吉原展』を踏まえて、新たな展示を自館で実現できないか、考えてみたい」と振り絞るように仰った。ともすればこれまでの〝炎上さわぎ〟と同様に一過性のものとなりかけている本件だが、流れを押しとどめて、自分に引きつけようと試みる姿に、私はとても勇気づけられた。

先の動画を企画制作した福田氏と瀧波氏、北原氏、そして批判を浴びてもなお限られた時間内で実現にこぎ着けようとしているであろう本展関係者をはじめとして、受け流さず自分の課題・問題と捉えて取り組もうと努めている人がいる。私は本稿の冒頭、早計にも「沈静化の兆し」と述べたが、模索し続けている人がいることを忘れてはなるまいと思う。


注釈

*1:このように労働について言及すると、おそらく次の反論を招く。「現代のサラリーマンも労働力という形で肉体を提供するばかりか、心さえ切り売りしているではないか」と。しかしサラリーマンは隷属しない。誰が主体となって労働力を提供し、誰が利益を享受するのか考えれば、サラリーマンと遊女の従属性は混同できないことは明らかである。

確かに、現実は主体や受益者の境界は曖昧であり、今なお「ブラック企業」と呼ばれる悪質な労働環境は進行形の問題ではある。が、労働の歴史を振り返れば、労働者の主体性を認めることで生産効率があがるという市場原理が、労働環境を漸進的にであれ改善に向かわせてきた。遊女との違いは明らかだ。

*2:遊女屋(遊廓経営者)による折檻は、借財や寄寓状態、年齢など力関係を前提にすれば、常態的な暴力がたやすく想像できるが、無制限の折檻が許容されていた訳ではなく、折檻の疑いを理由に遊女屋が取り調べを受けた事例もある(渡辺憲司「佐渡悲歌」〈『江戸遊里の記憶』所収〉)

北原氏の当該主張は、『性差の日本史』図録(2020年、歴史民俗博物館振興会)p200,6-33,新吉原規定(新吉原遊女町規定証文の改訂下書)に依拠したものと推察するが、同図版解説(執筆・横山百合子)を読む限り、内規に相当するものと理解できる。ただし、その内規を幕府が許容したと解釈するならば、北原氏の主張の通りである。


※ヘッダー画像・新潟県佐渡島に残る遊女ヲカルの墓。過去帳には「ギャクタイ」により没したとある。(撮影・渡辺豪、無断転載禁止)

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ありがとうございます。取材頑張ります。

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