下町風俗資料館に展示されている吉原遊廓の模型(三浦屋)を観て思ったこと
台東区上野公園内にある下町風俗資料館の企画展『「江戸風俗人形」の世界 〜建物・人形・小物の三位一体の妙〜』(会期:2019/12/7〜2020/2/24)を観てきました。
同展では吉原遊廓にあった妓楼・三浦屋を再現した模型(建物・小物・人形)が展示されており、SNSでも遊廓に興味のある人たちを中心に少し話題になっていました。
どのように時代考証されたのか?
私は一点、気になりました。それは考証です。どのような資料から時代考証を行った上でこの模型を制作したのか。それを確かめるために見学してきました。
展示は縦横3メートルの台に乗せられた迫力あるもので、建物は三浦宏氏[大正15年〜令和元年]、人形は辻村寿三郎氏[昭和8年〜]、小物は服部一郎氏[昭和8年〜平成21年]の三者がそれぞれが製作したと説明があります。
模型を制作するに至った経緯を説明するパネルに含まれるかたちで、時代考証についても触れているのだろうとの予想に反して、考証を説明するものはありませんでした。そこで、学芸員の方にお話を伺うことにしました。
以下は、学芸員の方に直接話を伺い、分かったことです。
以上から分かることは、下町風俗資料館は歴史的な正確性を担保していない、ということです。「とある画廊」が最終的に何らかの精査を行ったのかも知れず、それも今となっては不明ですが、同館が考証のプロセスを把握していないことには変わりはありません。
この模型を目的に同館を訪れた多くの人は感動したのではないでしょうか? そして「江戸の吉原遊廓はこうもあったのだろう」と昔日に想いを馳せたはずです。つまりこの模型を通して、模型の再現した風俗を少なからず史実と認識したわけです。
私はここに大きな危険性を感じました。
二次創作物をそう認識できることの意味
建物の考証が三浦氏に一任されていたらしいことから、人形や小物も考証は製作者側に任されていたものと考えられます。私設の画廊(「公設の画廊」とは聞かないので私設と想定しました)が依頼した経緯からしても、それは自然なことのように思えます。
私の推測ですが、歌川国貞『青楼二階図絵』などが主な資料に用いたのではないでしょうか。この作品は妓楼の内部がよく描き込まれていることでも知られています。
(2枚とも歌川国貞『青楼二階図絵』 ボストン美術館所蔵)
賑々しく行き交う遊客や遊女、部屋に籠もった長者らしき男性と遊女の後ろに艶めかしく積み重ねられた三重布団。後方には遊女を羽交い締めにしているシーンまで描かれています。
登場人物がそれぞれに役割を演じ、それを支える内装や小物も丁寧に描かれ、遊廓の風俗を今に伝える浮世絵と紹介されることも多い作品です。しかし、どれだけ浮世絵に同時代性があり、緻密に描き込まれていたとしても、純粋な記録ではなく、商業流通していた浮世絵はどこまでも創作物です。そして創作物から創作したとすれば、それは二次創作物と呼ぶことも差し支えないはずです。しかし当模型をそうした前提で観た人はどれほどいたでしょうか?
妓楼外側の造りは絵葉書「吉原十二景」に写された妓楼によく似ています。しかし絵葉書がそもそも明治後期以降のものです。(江戸末期には日本にも写真機が伝わっていましたが、民製の自由なデザインの絵葉書が流通を許されたのは明治後期です)
(『吉原十二景』 絵葉書が流通するのは明治後半。写真は近代の姿です)
(妓楼に特徴的な唐破風)
同館が発行するパンフレット『下町風俗資料館 号外』には、当模型を「華やかなりし頃の吉原」の再現とあり、模型内に登場する遊女たちの多くは高級遊女と考えられますが、最高位の遊女「太夫」が多かったのは江戸初期、すなわち浅草エリアに越してくる以前、人形町時代のごく限られた時代に過ぎません(西山松之助『遊女』)。浅草エリアに移転してくる時代には太夫の人数は一桁になり、程なく太夫は0人となります。江戸期吉原250年の歴史の中で、人形町時代は16%の時間に過ぎません。
加えて、遊女屋の等級分けで最高級とされる「大見世」は、全体のわずか4%(永井義雄『図説 吉原事典』)。この統計はかなり時代が下って文化8(1811)年の統計ではありますが、いずれにせよ、高級店は一握りでしかありませんでした。
多くの人が「吉原」と聞いて想像する新吉原時代は大衆化が進むのです。しかし大衆化が進んだからこそ、武士階級の経済力が弱まった江戸中期以降においても、町人が主流の客筋となり、吉原は長く続いたのです。吉原の長い繁栄は華やかさが失われたからこそであり、シンボリックな吉原を描くとき高級遊女や高級店を持ち出すのは虚構の創作物ならではの手法です。
私がここで言いたいことは、今回の模型展示は非常に趣味性の強いものだということです。画廊が制作の主体となったことから、考証よりも巧緻や審美に重きを置かれていたとしても納得ができます。
模型を観た人は何に感動したのか?
模型についてまったくの素人である私ですら、同展の模型には感動しました。
ただし、それはあくまでも建物・人形・小物の製作技術の高さに感動しているのであって、吉原の文化や風俗といった歴史性に感動しているのではありません。しかし、多くの見学者には、「模型の出来」と「風俗の再現度」を区別することはできません。何故ならば、先程説明したように、この模型の来歴や考証のプロセスを説明するパネルなどが一切掲示されず、見学者は知る機会を失っているからです。
先ほど、「大きな危険性を感じる」と述べましたが、受け手側は事実と虚構の区別ができず、こうして歴史が塗り替えられていくような印象を持ったためです。
時代を経るごとに事実と虚構の区別が曖昧になり、一つのイメージに収斂されていくことは遊廓に限らず、どのような過去の文物も避けられません。ただし、公設の歴史民俗博物館に求められる仕事は、虚構を愉しむエンタメ性や趣味性以上に、事実を学べる機会の提供であるはずです。
公設の歴史民俗博物館と展示方法
下町風俗資料館は、私設ではなく台東区の施設です。
私は今回の展示に手落ちを感じました。それは創作物を扱うな、という意味ではありません。小説は純粋に創作物と呼べるものですが、遊廓があった当時に書かれた小説は貴重な資料になり得りますし、逆にルポルタージュのかたちをとったノンフィクションでさえ、創作性は0ではないと私は考えます。創作物(創作性)の排除が最優先とは考えません。まして庶民文化を担った文物を扱う同館はより柔軟に展示物を取り揃えることもできるでしょう。「庶民が憧れた吉原」を文脈とした展示ならば解釈の幅も広がります。
しかし、公設の歴史民俗を扱う博物館であれば、創作物といえど、歴史的事実を足場とするのが本来であって、想像(創造)を足場にした創作物は慎重に扱うべきですし、その場合も十分な説明が必要でしょう。
今回の模型制作は、同館ではなく私設の画廊が主体であった経緯を知って、当初覚えた違和感「なぜ考証に乏しい展示を公設の歴史民俗博物館が行うのか?」は納得しましたが、同館のパネルにはその説明が欠けていたことは指摘したい思います。(不明とされた新聞記事にしても全国紙がデータベース化され、過去記事の検索できる今日では、来歴を調べることも容易です。いまだ不明の状態となっていることに驚きました)
以上が当展に感じたことですが、模型に心躍ったことも伝えたいと思います。展示ブースでは、建物を製作した三浦氏が語る映像も流れているのですが、三浦氏の口からほとばしる情熱や、齢を重ねても尽きぬ探究心と向上心に胸を打たれました。高名な辻村氏はもとより、服部氏のお仕事も、高度に訓練された技と、それを支えた長年の情熱を思えば、頭は上がりません。
ただし、作り手へのリスペクト次第で、歴史への態度を変えてはいけないと私は思うのです。
戦後の建物が消える東京
今回取り上げたのは、一つの歴史民俗博物館の一つの企画展に過ぎませんが、私は今回の展示に歴史を扱う公共の施設や、それを受け取る私たちの態度がよく表れていると思いました。
江戸は火事が多く、東京と呼ばれるようになってからも関東大震災と太平洋戦争の戦災によって、過去の多くの建物が失われましたが、逆説的にいえばだからこそ過去を懐かしむ風土のある地域です。私たちは失くしてから始めて価値に気付きがちです。
まさに同館の概要には、東京の街が様変わりしつつある昭和40年代に、古き良き下町の文化が失われつつあることに憂う声が上がった経緯や、関東大震災と戦災によって失われた下町の文化を伝える、といった趣旨のことが宣言されています。
今の東京はどうでしょうか? 先の震災・戦災の結果リセットされた東京に遺されている建築は、古いとはいえ戦後(せいぜい大正期)のものが多いことでしょう。ですが、私たちは戦後の建築にまつわる情報を次世代に残そうとしていると言えるでしょうか? 敗戦直後に建築された建物は物資不足も祟って安普請であることが多いようです。
しかしこれを「たかが」とは言えないはずです。戦後70年を迎え、もはや戦後の建築すら消滅しつつある時代を迎えています。
そもそも建物の文化的価値を、建材や設え、築年数で計ることができないことは自明です。むしろ東京が早いサイクルで再生を繰り返す都市であることを考えれば、それぞれの時代ごとの象徴性が建物の価値を表すのではないでしょうか? 分かりやすく極端に言えば、わずか10年前の建物でしかも造りがどれだけチープであっても、それまで席巻していた様式が10年前を節目にぱったりと街から消えてしまったとあれば、それは時代を象徴する建物であり、保存する価値は充分にあるものだと私は考えます。
戦後に「赤線」と名を変えた遊廓は、昭和21年から昭和33年のわずか12年間しか存在しなかった業態です。そして都内に現存している娼家が、ほぼ全てが戦後の建物です(私の知る限り、戦前の娼家が現存する可能性を残しているのは23区に存在せず、八王子市のみです)。
多くの赤線建築が、文化的価値を見出されることなく、むざむざと取り壊されている現状を、同館の高邁な宣言と重ね合わせたとき、私はとても残念な思いです。私は赤線建築の現状を知るが故に無念さを人一倍覚えているといえばそれまでですが、知られざる現状や価値を伝える仕事は、公設の歴史民俗博物館に託された大きな役割の一つだと考えてもいます。
戦後の娼家を残す気運が、歴史を伝える施設側から盛り上がらず(近年に赤線建築の調査がなされた話は寡聞にして聞きません)、一方で過去をロマンの範疇へと棹さす今回の展示方法に、残念なものを覚えました。(ロマンとは受け手の知識に拡張を求めずに気分の高揚を誘うことであって、この役割とは逆の行為と考えます)
今も都内に遺るわずかな赤線建築をすべて保存することは現実的に無理であることは承知していますが、せめて視覚資料や図面を保存するといったことに予算を割いて欲しいと願います。
失われてしまったものを再現する、今あるものを大切に保存する(情報を残す)。どちらも大切ですが、時代を問わず「今だからこそできること」は後者であると考えます。
おしまい
吉原が開かれたのは今から約400年前ですが、敗戦を迎えた1945年から400年後、戦後風俗を伝える企画展が催されたとしたら、その一部にパンパンガールもきっと登場するでしょう。そのときもし映画『肉体の門』を頼りに再現したジオラマ、稀代の作家たちによる人形や小物があったとしたら、未来の人たちは「活き活きとした表情を湛える人形、戦後の貧しい生活風俗を伝える小物たち、これは精巧な再現だ!」と拍手を送るのでしょうか? そしてそのことを現代の私たちは笑えるでしょうか?