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渡辺憲司先生『江戸の岡場所 非合法〈隠売女〉の世界』出版記念トークイベントご参加ありがとうございました。

2023年3月28日、都内では例年より早く桜が咲き揃った頃良きタイミングで掲題のイベントを催すことができました。本書著者であり近世文学研究者であられる渡辺憲司先生、参加者の皆様、出版関係者様にお礼申し上げます。

なにぶん司会である私の力量不足で、憲司先生(同姓なので、こう呼ばせて頂きます)のご知見の万分の一も引き出すことができず、反省しております。加えて、今回のイベント参加者には学識経験者も多かったようで恐々としていますが、私の拙い受け答えを汲み取って下さる憲司先生の優しさと深い知識、参加者様の温かいムードのお陰で、どうにか大役を果たすことができました。ありがとうございました。

渡辺憲司先生

拙い司会では聞き出せなかった代わりに、憲司先生のご知見は新刊に凝縮されていますので、是非お買い求め下さい。憲司先生の遊廓関連の御本としては、『江戸遊里の記憶』(2017年、ゆまに書房)以来、6年ぶりとなります。

イベント後には、近代期の地方遊里を探求している方から「自分も近世期を調べてみたくなった」との感想も頂戴し、主催者冥利に尽きる思いです。

今回は参加者61名と、ここ数年内で催したイベントでも一番の盛会となりました。参考まで参加者の属性をご紹介します。いつもより年代層も高く、男性割合が多いようでしたが、憲司先生のおつながりで参加して下さった方が多かったものと拝察します。

岡場所全盛の理由

イベントの振り返りも兼ねて、本書の内容に触れてみたいと思います。本書では岡場所の全盛期を18世紀後半に取り、その主な理由を以下の3点挙げています。

  1. 田沼意次の商業重視政策〈宝暦〜天明期〉(政治)

  2. 天明の飢饉に伴う地方から江戸への流民流入(天災・人災)

  3. 江戸民衆の自立(社会)

とりわけ3番目の「江戸民衆の自立性」に強い興味を覚えました。岡場所が必要とされた理由に、吉原が遠すぎるという交通利便性、岡場所は吉原のような形式もなく廉価で手軽という経済性は、従来の書籍でも多く説明されてきました。これらは理由の一つではあっても、当然全てではなく、新しい見地である民衆の自立性は、従来の岡場所考を補完する重要なピースを提示しています。

とかく現代の私たちは公娼街すなわち吉原を上に見、岡場所(私娼街)を下に見る歴史観が支配的です。「ものの見方」には正解などそもそも存在しないのですが、あえて先の見方を逆から照らせば権威主義にも映ります。為政者が認めたから価値があるのだという思考停止といったら言い過ぎでしょうか。

こと大衆文化に限定すれば、反体制的・反権力・反社会的性格を帯びているのが常です。現代ファッションでも老人はミニスカート、ヘソ出しに眉をひそめてきました。現代ボピュラー音楽は権力への抵抗、既成概念の破壊を謳ってきました。こうした大衆文化の潮流から性売買や遊興だけが除外される理由はありません。

イベント中、私は「遊廓は当時の大衆(男性)にとって、かっこ悪かったのではないか?」と発言しました。拙い言葉そのものですが、岡場所が求められた背景には、お上のお仕着せを良しとしない大衆側の心理があり、深川の評価「粋と婀娜」を雑な言葉で換言すれば「かっこよさ」と表現し得ると愚考しました。岡場所特有の文化が収斂した最端が深川だとすれば、本書169Pにも紹介されている夢中散人先生が『辰巳之園』(明和7年1770年)で、深川の特長として挙げた「素人風」は、権力に与さない私娼の歴史を考える上で、重要なキーワードになり得そうです。以下に考えてみます。

私娼と素人風

戦後、公娼制度は準公娼制度とも呼ぶべき、いわゆる赤線・特飲街に再編され、同時に進駐軍が駐屯する基地周辺には進駐軍相手の娼婦(洋娼)が多く佇みました。新旧かつ公私2つの売春産業が並立していた時代です。戦後、アメリカ軍に接収されて陸軍立川飛行場からフィンカム基地と看板を掛け替えた基地を擁した立川市でしたが、ここにも赤線娼婦と洋娼がいました。当地の洋娼を調査した研究書には以下と記されています。

彼等(筆者註・洋娼のこと)は特飲街にいる日本人相手の女達を「ビリ助」と呼んで軽蔑している
鈴木二郎編『都市と村落の社会学的研究』(1956年)

ビリ助が蔑称であることは何となく分かります。また研究者も以下のように特飲街と洋娼を比較して寸評しています。

昭和27年7月現在、本市の特飲街は錦町に33軒(従業婦117人)、羽衣町が24軒(従業婦97人)であり、特飲街全体として活気がなく、女もまったく生気を欠き、いかにも日陰者らしい。ところが洋娼は少くとも表面的には現在でも元気よく市民生活の中に滲透している
鈴木二郎編前掲書

研究者(観察者)をして、対照的に映った新旧の公私娼は示唆的です。

宮城県仙台市の遊廓で遊女勤めをした女性の聞き書きには、公娼(遊女)が私娼へ向けていた視線の一端が綴られています。(文中「末無嘉門町」は私娼街、「クサモチ」は私娼のこと)

廓よっか下のクサモチ屋でみじめして稼いでらぁと(中略)。末無嘉門町のクサモチの事。まともな男衆なんか、だぁれも行かねってばャ。誰とも知らぬノッツォこき、病気ば移され、あれさ、ほれさいってる中に鼻ぁもぎれ落ち、歯ぁも抜け、毛ぇまでぬけ落ちて、体ぁ腐っちまぁわナ。
竹内智恵子「末無嘉門町」(『鬼追い』所収)

公娼と私娼が軽蔑し合い、新興私娼は公娼相手に時代遅れと軽蔑し、公娼は新興私娼を格式がないと軽蔑する。

戦前では芸者・遊女とカフェー・キャバレー、戦後から現代ではキャバレーとキャバクラ、キャバクラとガールズバーの関係性がこれに当たるでしょうか。加えて、古く衰えた風俗ほど権力に接近し、「公的化」を生存戦略に採る性質を持つことは、各地の芸者や芸者町が無形・有形文化財などの指定・登録を受けている事実から窺い知ることができます。

風俗とは常に古い価値観を脱ぎ捨てながら、脱皮を繰り返してきた生き物のようで、歓迎する大衆と社会風紀をコントロールしたい為政者のせめぎ合いが連綿と続いてきました。大衆こそが新興性風俗の培養土となってきたという意味において、本書が提示する「江戸民衆の自立」は説得的です。(自立の結果が男の買春なら世話はないという指摘はごもっともですが、近年の女の買春もまた視野に収める必要があることを指摘します)

私娼の隆盛は近世期以降も途切れることはありません。戦後はアルサロ、平成以降は援助交際、近年は出会い系、パパ活など民衆の性売買は私娼化、換言すれば素人化が続いている事実を、江戸の公娼と岡場所に重ねてみたくなります。

示唆的な指摘があります。

日本の近代は、いきなり西洋文明との出会いで始まったのではなく、それまで蓄積されていた「近代化」の火薬に西洋文明が火をつけたに過ぎない(中略)仮に西洋との接触がなくとも、別の形で発火していただろう。
(中略)
人々は近世文化の性的退廃に既に嫌悪を覚えており、だからこそ廃娼も恋愛思想も広まったのである。
小谷野敦『日本売春史』(2007年、新潮社)

小谷野氏が指摘する廃娼と恋愛思想に加えて、自由恋愛に偽装した近代的性売買(私娼化)もここに含まれると私は考えます。

江戸末期、浅草寺裏手の俗に奥山と呼ばれた参道には、矢場女と称する娼婦がいました。明治中期に浅草公園が整備されると、凌雲閣の下には銘酒屋と呼ばれた私娼街が形成されました。そして、関東大震災の前後に隅田川向こうの玉の井や亀戸に移動しました。幕末から近代にかけて簇生したこうした娼街では、公娼・吉原と違い、遊客と娼婦が面と向かって個別に交渉が行われ、男は金を出す側であっても振られる可能性がある「駆け引きゲーム」がありました。この駆け引きゲーム性こそが民衆が求めた性売買を含む遊興の本質の一つであると、私は考えます。

対して、公娼の遊女は厚く白粉を塗り、廓言葉を用いることはよく知られています。これは遊廓特有の様式美として魅力的に言及されることが多くありますが、遊客の視点から見れば、娼婦である女の個性は埋没して、結果、遊び慣れた都市部の遊客にとって高揚感は大きく削がれていったのではないか。また、対価を払いさえすれば身体を開くことが前提である女性を相手にしたとき、駆け引きゲーム性は一層低くなります。白粉、廓言葉は商品である遊女の品質を均質化する、もっと言えば、魅力の嵩増しよりも底上げであり、歩留まりを整えるためのものにも映ります。戦前の公娼・吉原と私娼・玉の井を比較すると、吉原は地方出身の女性が多く、反対に玉の井では都市部周辺の女性が多かった事実があります。(余談ですが、『墨東綺譚』のお雪さんは宇都宮出身です)

現在の都内には、性交ありきのソープランドの軒数およそ1,200、性交を前提としないデリバリーヘルスがおよそ20,000(※)があり、10倍近い開きあります。(※警視庁『令和2年における風俗営業等の現状と風俗関係事犯の取締り状況等について』) なぜ性交をゴールに置かないはずの性風俗が隆盛をみているのか、ここまで本稿を進めてくると、利便性、経済性以外の理由も見えてきます。

現在に続く近代的性売買の隆盛は、明治維新後のある日、敗戦後のある日にポンと生まれてきたのではなく、18世紀後半を全盛に持つ岡場所を揺籃にして連続してきたもの、江戸・東京以外の都市部でも大同小異に再現されてきたものと、私は本書を通して理解しました。

さて、縷々やみくもに想像をたくましくしてきましたが、新刊『江戸の岡場所』が、大きな刺激を与えてくれる一冊であることに変わりなく、本書の出版を愛読者の一人としてお祝いして、本稿を終えたいと思います。

※当日のイベントは後日アーカイブとして有料配信予定です。


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