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当たり前がありがたいということ

2020年の春は、色々な当たり前が変わってしまった。

晴れ空の中で花見、週末の外出や飲み会、マラソンやイベント、ライブなどが人が多く集まるイベントはもう昔しかできなかったことのよう。

人との感覚は2m以上のソーシャルディスタンスを保って、マスクなしには外に出ることができないし、都心は昼間なのに人がいなくて、多くの店が閉まっている。

ニュースはずっと感染者の増加数や国策をどうするかという議論がながれている。1週間前と何が大きく変わったのか正直分からない。

2ヶ月前まではまさかこんな風になるとは思わなかったし、今までの当たり前だと思っていた生活が一気に変わってしまった。

「アフターコロナ」とか「コロナと共に」の世界を見据えておくようにとも言われているし、非日常が徐々に日常になっていく。もう誰も世界を正確に予測なんてできないのだろうなと思ったりする。

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コロナが教えてくれたこと

コロナでの外出自粛期間も1ヶ月以上経って、
個人的にはこの期間の中で、あらゆるものが制限されるので自分が大事にしているものや必要なかったものがくっきりと分かっていく感覚があった。

・通勤時間や外出前の身だしなみの準備にかけていた時間

・コンビニで買い物をする時にかかっていたお金

・家にずっと置きっぱなしで使わない物や本

・自分のやっている仕事でアウトプットに繋がっていない気遣いや見栄

・大事な時には連絡しないような人間関係

・付き合いの飲み会

・SNSで人の人生をずっと追いかける時間

・週末なんとなく詰め込んでいた予定

・自分の将来に繋がりにくそうな仕事や頼まれごと 等等

もしかしたら自分や大事な人たちの命が終わってしまうかもしれないし、
これまでのような当たり前がいつ戻るか分からないからこそ、
自分に必要なものとそうでないものの輪郭がはっきりした気がする。
いらないものをどんどん断捨離しているような感覚があって、
コントロールできないことはしょうがないと考えて、今の中でできることを考えるようになった。

私の家にはTVがないけれど、AmazonPrimeやYoutubeがあれば楽しめるし、
外食や飲み会に行けなくなったけれど、友達への連絡やビデオ通話を週に数回すれば満足できる。
寂しさに任せてそんなに毎日人に会う必要もなかったのかもしれない。
読書をすれば意外と自分が悩んでいたことが解決してしまったりもする。
大好きな居酒屋にはいけないけれど、時間があるから自分で居酒屋料理を調べて作ることもできる。
すっかり節約家。

同時に、
これはありがたかったなということもたくさんあって、例えば

・日光(セロトニンの分泌が鬱防止になるので超大事)
・栄養の取れた食事ができること
・連絡をくれる相手がいること(一人で引きこもっていると流石に病む)
・しっかりと睡眠を取れる時間があること
・自分や家族、友人が健康であること
・やっぱり運動は健康に良いということ
・スーパーやコンビニでも十分美味しいものがすぐに買えること
・治安も良くて周りの住人の方も静かなこと
・姉妹とのたわいもない会話ができること
・困った時に助けてくれる人や相談できる人がいること
・仕事があり、お給料がもらえるということ

そんな当たり前だけがあれば生きていけるし、
当たり前のインフラを支えている人たちが巣篭もり生活を支えてくれている。
逆にそれ以外に不要なものはたくさんあったんだなぁと思う。
ジンベエのこの名言をふと思い出した。

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「ないものはない。まだ自分に残っているものは何か。」

「この状況だからこそ得られたものは何なのか。」

守りたい半径が小さくなると大切なものが分かる

外に行けなくても、これまでやっていた週末の副業だったり、Matcherなどでの就活相談なんかはPCさえあればできるし、今も続いている。
逆に苦手ながらやっていた仕事や人に頼まれたからやっていた仕事なんかは全然捗らない。人に見られていないから、アウトプットの差がかなり顕著になった。自分の得意不得意・モチベーションが明確になった。

こんな時だからこそ連絡を取りたいと思う人とそうでない人の違いも自分の中であった。
ずっと嫌われたくないからとだらだら続けていただけだった人とのLINEは続かなくなった。このご時世みんな自分の大事なものを優先する。
お人好しな自分の”建前”がすっかり取り払われて、根底の思いが自分でもくっきり見えるから、図らずも自分と向き合う時間になった気がする。
コロナという絶対的な外部不安の中で、守りたい”半径”が少し狭くなったからこそ見えたのかもしれない。

テレワークや在宅勤務ができている人がいる一方で、家庭の事情でその方が深刻な立場になる人、嫌でも仕事的にそれができない人など色々な立場の人がいて、それぞれの事情があるのに、違う立場の人たちを叩くようなこともSNSでたくさん見てちょっと悲しくなったりもした。

自分が当たり前だと思う脆さは相互理解の上でとても大事なものなのだけど、余裕がないと人はそれができなくなるものなんだろうな。

余裕のある時こそ、人を大切にしたいと思ったし、そうできない人も余裕が今はないだけかもしれないから責めないようにしようと思った。

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いつ変わるか分からないからこそ

今週は、AmazonPrimeで「パーフェクトワールド 君といる奇跡」を観た。

主人公が高校時代の初恋の相手である先輩と再開するけれど、その先輩は交通事故で車椅子に乗っていた。先輩は、普通の恋人ができるようなことができず、周りに迷惑をかけてばかりの自分を責めて恋人を作るのを諦めていた。でも、そんな先輩と一緒にいたいと思う主人公の姿が切ないけれど、最後は幸せになるラブストーリー。
「辛いことも、誰かと一緒に乗り越えていけばいいんだよ。」そんな主人公のまっすぐで優しい言葉がとても素敵な物語だった。

「当たり前」がいつ当たり前でなくなるか分からないからこそ、「当たり前」の尊さと自分と同じくらい大事にできるものがある人の強さを感じた。

もしかしたら、あの頃の当たり前は帰ってこないかもしれないし、
そんな綺麗事のようにうまくいくことばかりではないかもしれないけど、
25歳の今だからこそできることをしっかり生きていきたい。

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