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窓ぎわのトットちゃんの恩師「小林宗作」について、視察に行かれた町の議員さんにインタビュー


井上:井上日出来 議員 増子:増子京子 議員 富澤(インタビュア):富澤雄河

=イントロダクション=


井上:いよいよ、今週から映画公開ですね。

増子:あいみょんの曲もいいですね。YouTubeで聞きました。映画の映像と一緒にバックに音楽が流れてて、すごいそれだけで泣いちゃいました。

井上:今度の金曜日の午後一時の徹子の部屋でも、ゲストがあいみょんさんで、テーマ曲を作る時のいろいろな苦労話とかもするそうです。色々楽しみですね。

チケットも予約取ろうと思ってたら、まだ販売されてなくて取れなかったんだよね。
とにかく、週末には早速見に行こうと思ってます。

=挨拶=


富澤:集まっていただきありがとうございます。

小林宗作さんについての情報を集めようと動いている中で「議員の有志の方が視察に行かれた」という話を聞き、これはもうお話を聞かせていただくしかない!と、声をかけさせていただきました。

井上:最初はいつだったっけな。
10月の終わりぐらいだったかな。ネット上で「窓ぎわのトットちゃん」が劇場公開されるという情報を見たんですよ。
そこから僕は前々から気になってたのもあって一気に調べ始めました。

富澤:最近だったんですね。

井上:すごい人だなっていうのが、とにかく同じ音楽家でも、教育者の観点からも見えてきたんだけど。
実際に当時すごい人たちが関わっているのを知って、驚きの連続でしたよ。
例えば、名前を挙げるとしたら、少し前に五千円札に使われていた新渡戸稲造(にとべいなぞう)さんとか、三菱財閥の四代目の方とか。

=留学とリトミックとの出会い=


小林宗作さんが学校を作る時や留学をする時に、資金提供してるのは当時の小林さんの考えに共感した三菱財閥だったんだよ。
学園の学校設立にも関わってるし、小林先生が留学して、リトミックなどの幼児教育の基本をヨーロッパで勉強してくる時のお金を出したのも三菱財閥です。

富澤:トモエ学園の前から実績のある方だったのですね。

井上:小林宗作は関東の保育士育成学校で指導しているので、現在の幼児教育にも多大な影響を与えた人物とも言えます。

ヨーロッパに渡った時には、国連の事務次長だった新渡戸稲造さんと出会っています。

そこで新渡戸稲造さんに「ヨーロッパには幼児教育の関係でリトミックっていうものがあるよ」と教わり、リトミックのことを学んでいく流れになりました。

富澤:なるほど。最初に知ってから行ったわけでもないんですね。

井上:そこで、「リトミックだったら、こういう人がいますよ」と、紹介してもらうのがリトミックの先駆者であるダルクローズさん。

富澤:「窓ぎわのトットちゃん」にも名前が出てきていました。

井上:ダル・クローズの元で勉強をしながら滞在をし、日本に帰ってくることとなるんだけど、そこから日本の幼児教育の現場で少しずつリトミックを実践をしていくんです。

日本でリトミック協会を設立したことで、ヨーロッパの研究所からも非常に高い評価をもらったようですし、今でも研究所との交流が続いているようですよ。

富澤:教員としての活動だけでなく、日本のリトミックの基盤を築かれたのですね。

井上:最初は、小学校の先生でした。

小学校の先生になったことで、学校教育に疑問を感じるようになったそうです。
小学校に入る前の幼児教育が重要なんじゃないかということに気がき、小学校の先生を辞めて、幼児教育の研究家っていう形で活動されていました。
その後は、ある学園内の幼稚園の設立やカリキュラムを作ることに関わって、そのまま学園の幼稚園に勤めて、再び教育者として戻ってきたようです。

そこでは、当時の日本の童話や民話を元にした子ども用のオペラを作って、幼稚園でオペレッタを上演したりとか。
それを見た三菱財閥の四代目の方が感動して、三菱財閥からの支援を受けるきっかけにもなったそうです。

それに、小林さんがヨーロッパから帰ってきてからも、成城学園の小原國芳氏からすぐにスカウトが来ました。

富澤:すごいですね。
つまりは、そのときにはすでに日本の教育業界の中で一目置かれていたんですね。

井上:その後は、学校をまた退職して、もう一度ヨーロッパに留学をし、帰国後に最初となるリトミックの講習会を開催したそうです。
ただ、この時の受講生は一名だったとか。

富澤:一人だけだったのですか。

井上:でも、その一名が弟子になられたそうです。

富澤:色濃く継いでいくんですね。

=小林先生の人柄=

2024年。地元、群馬県の新聞にも取り上げられる。


富澤:「窓際のトットちゃん」の映像の中だと白髪でしたが、トモエ学園で校長をされた時は、50〜60代の時ですか。

井上:トモエ学園の設立時は45歳ですね。
昭和だと13年です。でも、昭和20年に空襲で焼けちゃったんですよね。学校が。

富澤:一度なくなってるってことですか。

井上:東京で空襲があった時です。
その時に、トモエ学園の子供たちと一緒に疎開してるんですが、疎開先が東吾妻町の岩下の大村なんですよ。

富澤:当時のお話を伺ったことがあります。
「当時、三、四十人の子供達が疎開に来ていて、毎日布団がたくさん干してあったよ」と、教えていただきました。

「窓際のトットちゃん」の本に出てくるシーンで、子供に対して優しいだけでなく、愛情を持ちながら一人ひとりの成長に、寄り添ってるような印象を受けました。また、同じ先生に対してものすごい情熱的に注意している姿も、本を読んで印象的でした。
小林さんはどういうお人柄だったのでしょうか。

井上:子供にはとにかく優しかったようです。

教育現場に立って、一番重要視してたことは、子供を中心に物事を考えること。

例えば、自分がいる園で、先生たちが自分の都合に子供を合わせているのを見つけたら、強く注意をしていたそうです。先生たちに対して「自分たちの枠に子供をはめるな!」と、怒っていたそうです。


=トモエ学園が作られたきっかけ=



富澤:トモエ学園はなぜ作られることになったのでしょうか。

井上:実は、成城学園の中でちょっと派閥争いみたいなことが起こってしまって、自分の目指してる環境が作れないと感じたのがきっかけのようです。
そこで、色んな方に支援をしてもらいながらも、自由が丘で経営困難になっていた小学校の一部分を自分で買い取ったそうです。それがトモエ学園のスタートです。

小学校のための敷地を買い取った後で、前のオーナーが借りた金をまだちゃんと返してないって話が出てきたことで、学校の敷地である校庭の半分を売り払うこととなってしまいました。
いろんなものを、拡張して作る予定だったのが、半分土地がなくなっちゃったんで、もう本当にお金もないけど、教室を作らなきゃいけない。そんな状況の中で、本の中でも出てきた「電車の教室」に繋がります。

あの当時は線路も電車もどんどん増えていて、車両も新しくなっていた時代だったらしく、「古い車両があるよ」という話を聞きつけて、それをもらってきたりもしました。

富澤:すごい。本の中でも、途中に増えてますよね。

井上:とにかくお金がない中で、工夫して、電車の教室を作って、その中を子どもたちの学びと遊びの場にしたんですよ。

富澤:子供から見たら夢のような教室ですよね。

井上:小林宗作さんですが、すごい苦労もされてるんですよ。例えば、トモエ学園も10年も経たずにして空襲で焼けてしまったそうです。それでも、焼けた後の現場を見て、息子さんが横にいながら「次はどんな学校を作ろうか」っていうのを子供達に話してたらしいです。

富澤:すごいですね。

※小林宗作が好きだったダル・クローズの生徒たちの写真

=映画のテーマを考察=


井上:徹子さんが動画の中で話しているのを見て思ったのですが、おそらく映画として取り上げられているテーマも、小林宗作さんの教育理念なのかなと。
「その当時のことを世の中に伝えたい」ということを言ってたのを見ました。

徹子さん自身は、子供の頃にわずか数年しかそこに通ってないわけですよ。
だけど、その中で得たものっていうのが、後々自分が大人になって人生を過ごしていく中で、どれだけすごいことだったのか。
そこに気がつき、この本を書いたでしょうし、今でも伝えたいのだろうなと思いました。

現在も小林宗作さんの教育理念を引き継いでいる国立音楽大学附属幼稚園を視察させていただいた時も、園長先生の話を聞いていると、本当に涙が出そうな話ばかりでした。

富澤:そうなんですね。じゃあ、幼稚園の先生も、小林宗作さんの教え受け継がれているような方なんでしょうか。

増子:そうですよ。園長先生は特にそうでした。

園長先生は話の中で、個性が叫ばれてる今の世の中だけれども、それもどうなんだろう。と仰っていました。

「いいんだよ。個性だよ」って言いながらも、どこかで、大人が自分の枠にはめるという思惑が根底にあるんじゃないか。

本当にこの子供の、この一対一の子供のためにっていう思いが本当にあるかどうか。
そんな、自分の中でしっかりとした信念こそが大事なんだなと思いました。

視察の様子。右から三番目の女性が園長先生。


小林宗作


明治26年6月15日 旧岩島村(現在の東吾妻町岩島地区)に生まれる。

・上京の後、東京音楽学校乙種師範科(現在の東京芸術大学)に入学。
・小学校での勤務を経て、幼児教育の専門家として活動を始める。

・大正12年に三菱財閥四代目の岩崎小弥太の支援を受け、ヨーロッパに留学。
・ジュネーブで新渡戸稲造と面談をし、リトミックの存在を知らされる。
・リトミックの発案者であるダルクローズとパリで出会い、直接指導を受ける。

・帰国後に、教育学者である小原國芳に抜擢されて、成城学園で教員として勤める。
・昭和12年、東京自由ヶ丘にトモエ学園を創設。
(教え子は、黒柳徹子・津島恵子・池内淳子・山内泰二など。)
・子どもの自主性と創造性を重んじる教育を一貫し、関東エリアの保育士育成学校で指導。日本の幼児教育の礎を築いた。

トモエ学園は戦災により消失。トモエ学園の跡地には、現在ショッピングモールがあるが、
その一角にはトモエ学園の記念碑が今でも設置されている

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