れいゆ大學①① 《演芸史》すこし本気のニセ現代漫才論
※写真は都上英二・東喜美江。
※文中は敬称略。
※著者の頭がこんがらがっているため、非常に読みにくいテキストになっています。
【れいゆ大學】①① 《演芸史》すこし本気のニセ現代漫才論
田中角栄「みなさん、東京の空も低くなりました!」
富澤たけし「ちょっと何言ってるか全然わかんない」
池田勇人「貧乏人は麦を食え」
粗品「マリー・アントワネットの日本版…!」
吉田茂「バカヤロー!」
坂田利夫「あ、よいとせのこらせのよいとせのこらせ」
小泉純一郎「私に反対する勢力はすべて抵抗勢力!」
ビートたけし「ヒロポンをやっているとしか思えないよ」
年の瀬というと、かつては落語の「芝浜」であり、あるいはテレビドラマの「忠臣蔵」だったが、昨今ではM-1グランプリということになっている。もし桂歌丸の物真似ができたら、「一度でいいから見てみたい。太陽と月とブラックホールのトリオ漫才」と言ってみたいが語呂が悪い。日本語は七五調で出来ているのだから。たとえ種田山頭火や尾崎放哉のような自由律俳句でも、言葉と音のリズムの中で7と5は必ずポイントになっている。俳句や短歌に限らず、浪曲から河内音頭から昭和歌謡、当世人気のJ-POPまでがそうである。アメリカ音楽のブルーズのリズムはちょうど日本語の七五調と合致した。終戦の前後10年ほどのあいだに生まれた大瀧詠一や高田渡らフォークやロックの人から、山下達郎から桑田佳祐の世代までは、アメリカ音楽とともに日本の伝統へのリスペクトもそのまま明示しているが、それ以降の小室哲哉もChelmicoも誰も彼もが七五調である。瑛人歌いし「香水」なる歌がヒットしたのは、歌詞がド演歌の世界であるのと同時に、メロディまでが日本民謡だからである。「別に君を求めてないけど」というサビの部分は、寄せては返す波に揉まれながら身体を動かすトラディショナルな漁師歌そのものだ。だから三橋美智也が歌ったらピッタリかもしれない。漫才の台詞も基本的に七五調、そして決められたリズムである。「俺コンビニの店員やってみたいんだよね」「じゃあ俺客やるわ」。「俺の鳥人(とりじん)見ろや」「ほな俺人間の子供な」。会話は必ずカチッとリズム菩薩の掌の中に収める必要がある。古舘伊知郎のような言霊メインの話芸人はもはや七五調のリズムの大洪水。古舘伊知郎はアナウンサーにも関わらず、伝わりやすくするためには「てにをは」を省略したり「みたいな」を多用する。「22歳からずーっと、アナウンサーやってきて、喋る仕事ひとつでやってきた」。宮崎駿や富野由悠季のお喋りが、庵野秀明や細田守のお喋りより断然に面白いのは、昔の人は落語や浪曲が自然に身に染み付いているからだ。現代の漫才でも、落語とかが好きな人とそうではない人とで、話術のリズムがまるで異なる。漫才は萬歳であった。漫才になったあとも、ナイツの塙宣之が語るように、漫才は音楽である。スネークマンショーの「ごきげんいかが1・2・3」である。ツービートというコンビ名がそれを示唆している。昔のTHE MANZAIで、YMOの3人が漫才トリオとしてネタを披露したときの名前はトリオ・ザ・テクノだった。のちにも細野晴臣は戦前から威光を放つ怪しげな大御所コメディアンのようであり、坂本龍一はどんなに美しい旋律を弾いていてもピアノ漫談家にも見えてくるし、高橋幸宏は竹中直人とコントをしたとき伝説の旅芸人のようだった。関西フォークと言われた時代、高田渡と岡林信康の掛け合いはまさしくボーイズ漫才であり、ザ・フォーク・クルセダーズはコミックバンド版のザ・ビートルズだった。しかし、どう考えても漫才師がコンビニの店員になりたいわけがない。漫才師は芸人だ。アルバイトでコンビニの店員をやむなく勤める者はあれど、わざわざコンビニの店員になりたいなんて不自然だ。だからアンタッチャブルやサンドイッチマンのようにコンビニの店員になりたいなんて絶対に嘘に決まっているような無責任さがあったらいいが、ほんとうにコンビニの店員みたいな漫才師が「俺コンビニの店員やってみたいんだよね」というのは、そんなものをハレの舞台で見るのは嫌である。しかし、鳥人(とりじん)になりたい笑い飯は、手塚治虫の火の鳥のように永遠を具現化する。しかし深夜の市街で夜行中のように眩し過ぎるコンビニも哀しいくらいに永遠かもしれない。落語はひとりで上下(かみしも)を切ることで二人の会話を演じる。漫才は二人いないと二人の会話にならない。これ如何に。だから落語やピン芸は狂気の世界である。やなせたかしがアンパンマンミュージアムをつくったら何をしたかといえば、ステージでマイクを持って歌い出してしまった。アンパンマンがパトロール中でも、やなせたかしは朗らかに歌っている。M-1グランプリで立川談志が審査員だったとき、ファイナリストにはちょうど談志に可愛がられていたテツandトモの二人が名を連ねていた。テツandトモはいつものように、お馴染みのあるあるネタ歌謡「なんでだろう」を歌いながら、ギターを弾き、舞台狭しと踊った。松本人志は「これを漫才と言っていいものか…」と悩む素振りを見せた。そこで談志はこう発言した。「お前ら、こんなところに出てくる奴らじゃねえ」。このとき、ほかの審査員も観客も視聴者も、多くの人々は、談志が松本人志と同じ意味合いのことを言ったのだと認識したのではないか。しかし談志の言葉の真意は違った。おそらく、「お前らはもう一人前だし、自分たちの世界を持っているんだから、こんな漫才の一番を競う大会に出ることはない」というような意味だっただろう。楽器や踊りがあり、喋りが歌になっているからといって、それを漫才ではないと前提的に考えるのは、ある程度より下の世代の生まれではないだろうか。むしろ多くの漫才が、かてては三味線や鼓を持っていた。喜納昌吉は「すべての武器を楽器に」と言ったが、東京ダイナマイトのハチミツ二郎はカタナを持ってM-1グランプリに出たので、テツandトモ以外では漫才界では楽器が武器になった。談志はこのとき、朴訥と喋るスタイルのおぎやはぎをして「リーガル千太・万吉を彷彿とさせるね」と発言し、M-1グランプリの空気に「演芸の歴史」という名の美しい楔をさした。また別の番組では、「若いのでも面白いのがいますよ。『おぎや・はぎ』とか『アン・ジャッシュ』とか。『アン・ジャッシュ』みたいなああいう、すれ違う漫才は昔もありましたね」と、ひねくれ者なので、名前を変なところで区切って語っていた。ちなみに私は小林のり一のツイートが好きなのだが、談志はほんとうは爆笑問題よりも海砂利水魚(現在のくりぃむしちゅー)のほうが面白いと評価していたという。テケレッツのパッ。現代では歌や踊りや物真似があってもあくまで喋りの掛け合いがメインになっているものを漫才としている向きがあり、M-1グランプリもTHE MANZAIもそのように定義しているようである。だから、往年のコント55号のように動き回りながら、物真似も交え、玩具箱をひっくり返したような霜降り明星は、誰だって漫才ではないとは言わない。しかし、テツandトモは、あるいはマジカルラブリーは、あるいはほとんど一方のスタンダップコメディ状態であるウーマンラッシュアワーは、芸能の歴史を知らない連中によって、それは漫才なのかなどとつまらない嫌疑をかけられる。プラン9や超新塾のような三人組以上のグループが漫才と認められたのが、救いのように思えるくらいに、数ある演芸の中で漫才だけが局所的に誤解で縛られている。東京ボーイズのようなかつて大人気を博したボーイズものや玉川カルテットのような浪曲漫才は現在は身を潜めている。では、どこまでが話芸でどこからがそれ以外の演芸なのか。そもそもなぜ漫才と一人の漫談を区別したいのか。パペットマペットはなぜ漫才ではないのか。パペットマペットはカエルさんやウシさんと漫才をしているのだから漫才師ではないのか。腹話術師の川上のぼるやいっこく堂は人形と漫才をしているのだから漫才師のはずである。ニセ右翼演説漫談の鳥肌実は、虚構のような現実という相棒と漫才をしているのではないか。太ったあとの鳥肌実が終戦記念日の靖国神社前で本物のヘイトスピーチに混ざって、在日差別などを出鱈目にやったことがあった。相棒は本物のヘイトスピーチであり、結局は何も信じていない日本人そのものである。鳥肌実も日本社会も狂気である。あるいはイッセー尾形の一人芝居は、余白が肝心ながら、そのじつは会話劇なので漫才と言えるかもしれない。イッセー尾形が舞台の隅で幕間の着替えを意図的に見せる。虚構と現実のはざまが相棒だ。イッセー尾形もまた狂気である。イッセー尾形は何年か前に、長らく組んできた演出家の森田雄三とコンビを解消した。ホームページには、公園で自作の紙芝居を子供たちに披露しているイッセー尾形の姿がある。完全なる孤高である。ここまで考えると、漫才というものがお笑いの代表のように語られる現代に「異議あり」と手を挙げたい。ほんとうに島田紳助にとっての漫才だけが漫才なのだろうか。いちばんオモロいやつを決める必要などあるのか。漫才は二人の会話だから、漫談や落語や一人芝居ほど狂気にはならない。松本人志は狂気の天才として君臨したが、「一人ごっつ」で暗闇の寺院で大喜利を孤独にするその後ろには、放送作家でシンガーソングライターの倉本美津留が声を担当する大仏(笑いの神様)がいた。孤高のカリスマであるはずの松本人志は、じつは一人ではなかったのだ。一人ごっつと言いながら、ダウンタウンではないときも一人ぼっちではなかった。その進化形である「新・一人ごっつ」の第1回は、「義父」というトラウマ的コントだった。少年に母親の再婚相手である男が虐待をする。そこでいちばん怖いのは、松本人志の演技でも、少年がマネキンであることでも、放送時間と同じような深夜の光景だったことでもなく、スタッフの屈託のない笑い声だった。「新・一人ごっつ」は一人ごっつシリーズで私がいちばん好きだが、どう見ても心の傷を抉るような暗澹たる内容なのにスタッフが笑っているということは、松本人志はここでも一人ではなかったのである。さらに「松ごっつ」では、ついに板尾創路と木村祐一が大仏(笑いの神様)の弟子仲間として揃いの作務衣と手拭いで登場し、松本人志と一緒にメタフィクション的なコントを演じた。鎌倉のお寺で催された「24時間大喜利」でも、三人が並んで夜を賭けた。トカゲのおっさんもイカこどもも大日本人も寂しい目をしているが、しかし松本人志は漫才師だから、イッセー尾形のように一人ぼっちではないのである。「人志松本のすべらない話」を見ると、同じ当代人気の吉本興業の芸人でも、落語を好きな人とそうではない人の話法がはっきりと分かれる。松本人志や千原ジュニアは落語を好きなので、あらかじめ構成がしっかりとしている。松本人志と千原ジュニアも敬愛する桂枝雀は、古典落語を練り上げることに留まらず、笑いとは何かを理詰めで思考し続け、頭がこんがらがり、自ら命を絶った。枝雀は落語家だから一人ぼっちだった。ちなみに枝雀が奥さんにプロポーズした言葉が「あんたみたいな天涯孤独の人を探してたんや」だったそうだ。つまり、人は愛する人に対して自分と似たような境遇や本質を求めるのかもしれない。しかし松本人志も島田紳助も一人ぼっちではなかった。だからこそ紳助竜介解散後に辛い人生を送った松本竜介と、横浜で明るく自由に暮らすビートきよしは対照的である。ビートたけしの「浅草キッド」で歌われる相棒はきよしのことではないのに、きよしは平然とニコニコ笑って「浅草キッド」を歌う。きよしもたけしも最初は漫才師ではなかった。浅草のストリップ劇場でお色気ショーの幕間に師匠である深見千三郎とコントを演じていた。狭い楽屋の隅で寝泊まりし、裸を売るお姐さんたちに可愛がられ、人生なんて大したことじゃないと、日々を生きていた。ふと、寄席で漫才をやって一身出世という夢を見た。東京漫才の名門であるコロムビア トップ・ライトの青空一門や松鶴家千代若・千代菊の松鶴家一門に弟子入りし、寄席の世界に入った。たけしは、東京漫才は必ずしも上方漫才を祖にするわけではないと語るが、やはり大雑把には漫才は関西発のものと言えるだろう。三大喜劇王と呼ばれたエノケン・ロッパ・金語楼。歌えて踊れて戯けて弟子を育てて晩年には身体にハンデを負った榎本健一はビートたけしのようであり、活弁士の徳川夢声の身内でもともとは芸人ではなかったインテリの古川緑波はタモリのようであり、落語家からコメディアンに転身した柳家金語楼は明石家さんまのようである。その金語楼の二人の弟子が着物からスーツに着替えて漫才師になった。リーガル千太・万吉である。古来から伝承される門付けやお座敷の萬歳とは異なる喋りの漫才の歴史が東京にも迸った。一人芝居に歌に踊りにピン芸をやっていた東喜代駒は東京漫才の草分けとなった。大丈夫、KKベストセラーズの非公式の攻略本だよ。裏技がいっぱい載っちゃってる。しかし、やはり萬歳を漫才につくり替えられたのは関西ではないだろうか。かつて玉子焼きを売り歩きながら、客寄せに江州音頭や河内音頭を唸っていた伝説の男あり。その名は玉子屋円辰。彼は次第に寄席に出るようになり、本職の芸人になった。改めて三河萬歳に弟子入りした上で、寄席で二人で喋る漫才を編み出した。玉子屋円辰の弟子、孫弟子、ひ孫弟子と、玉子屋大一門は膨張し、夢路いとし・喜味こいし、人生幸朗・生恵幸子らがいる。そして上方漫才中興の祖は、もう一人いる。横山エンタツである。奇しくも玉子屋円辰と同じ名前だ。二匹の巨大な龍(辰)が飛翔して円を描いて上方芸能の歴史に礎を築いた。横山エンタツは演歌師や旅芝居を経て、花菱アチャコと漫才コンビを組んだ。エンタツの弟子は横山ノックであり、ノックの弟子は横山やすしであり、そして漫画トリオ結成のためにノックからスカウトした上岡龍太郎(旧芸名・横山パンチ)であり、上岡龍太郎の弟子は天海祐希が大ファンと公言したツチノコ芸人のテントである。ちなみに横山ホットブラザーズは別の横山一門なり。横山エンタツの息子は吉本新喜劇の花紀京であり、花紀京の弟子は間寛平であり、間寛平の弟子はシベリア文太である。横山エンタツがコメディアンでもある花菱アチャコと組んだように、横山やすしは何人もと喧嘩別れしたあとに吉本新喜劇の役者である西川きよしと組んで成功した。霜降り明星のせいやが漫才の枠組みの中で動き回るように、しゃべくり漫才の歴史の中に軽演劇の血潮あり。しかし逆に、松本人志はコントや映画やテレビドラマやCMのときも漫才師の仕草を基調とする。まったく別の人間にはならず、つねに恥ずかしさを伴っている。立川談志は松本人志を「照れがみなぎる」と評した。赤塚不二夫は松本人志と対談して、すごくシャイな奴だったと言った。だから松本人志はコメディアンというより漫才師である。東京漫才では太田光もやはり、漫才でもコントでもつねに照れている。太田光に対して田中裕二はじつにコメディアン的な人である。そこで、おぼんこぼんのイメージが飛来する。田中裕二とこぼんが顔が似ているからだろうか。実生活から大袈裟に演劇的に振る舞ってしまうおぼんと、そんなおぼんのつくる厄介なストーリーに乗っかっていくどこまでも超然としたこぼん。おぼんもこぼんも昔ながらの芸人の凄みがあり、最近の芸能人が持つ素人っぽさが一切ない、まさにヤクザ的な玄人宇宙が広がる。おぼんとこぼんは、どちらも漫才師的であり、どちらもコメディアン的である。それは二人が関西人であるのに最初から上京し、しかも寄席ではなくキャバレーで修行をし、関西弁を喋りながら洗練されたタップダンスをするという、東西のハイブリッドたる異色の漫才コンビであることが所以ではないだろうか。内海桂子・好江亡きいま、おぼんこぼんは東京漫才の大親分格だ。しかし、その感覚は寄席の世界よりも、とんねるずやウッチャンナンチャンに連なる川上にある滝かもしれない。タモリが昔、日本テレビでやっていた「今夜は最高!」は、パロディコントと対談コーナーで構成されていたが、コントが始まっても途中から、扮装したままタモリがゲストに「最近、離婚して大変なんだって?」とか普通に話しかけ始め、結局フリートークになってしまう。寄席でも劇場でもなく酒場で芸を磨いたタモリならではの雰囲気の世界だ。演劇を漫才で脱構築しながら漫才も脱構築している。コントや芝居というものすら信用していない、あるいは芸能やテレビを大したものとは思っていない、タモリという正規のルートで芸能界入りしたわけではない奇妙の人物が持つ、ジャズ的でアナーキーな乾いた感覚だ。ちなみに「笑っていいとも!」では初期にはコント風のコーナーがあった。しかし大衆がラクして見られるのは、タモリと明石家さんまのフリートーク漫才のほうだった。人々はタモリのハナモゲラ麻雀や寺山修司らの文化人ものまねを忘れ、「仔馬の出産」とか「鷹の着地」とかの形態模写を披露するタモリを見るようになり、さらにはコージー冨田による偽タモリを本人タモリよりも多く見るようになった。上方の話芸の住人である明石家さんまや笑福亭鶴瓶は、予定調和を崩しにいくタモリを凄いと賞賛する。おそらく、もっと関西に根ざした昔ながらの芸人にはタモリは理解し難い存在だったはずだ。「お笑いスター誕生」で鳳啓介と京唄子にまったく理解されず相手にされなかったとんねるずを、タモリが「何だかわなんないけど面白いね」と言った。タモリも何だかわかんないけど面白いという理由なき理由で赤塚不二夫や山下洋輔や筒井康隆らに評価されたからである。東京発のテレビにはほとんど出演しなかった上岡龍太郎は「笑っていいとも!」のテレフォンショッキングに呼ばれたとき、タモリ的世界に影響されないように挑んだ。しかし実際にはタモリは礼儀正しく好印象な人物で、肩透かしを喰らったような感じを受けたという。上岡龍太郎は「これからのテレビは素人が芸をし、玄人がプライベートを見せるようになる」みたいなことを予言した。その構造はエスカレートし、上岡龍太郎は西暦2000年に引退した。フリートークのバラエティ番組であっても、講談や歌謡ショーの司会のように立板に水のごとく喋ることができる上岡龍太郎にとっては、「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで」以降の芸能界は、自分が信じた芸能界ではなくなっていったのだろう。ところで最初にテレビで素人と玄人の境界線を破壊したのは、萩本欽一である。萩本欽一はロケで素人をいじり、スタジオコントでは芸人ではないタレントを客前で現在進行形で育成した。小堺一機や関根勤、あるいは欽ちゃん劇団のメンバーを除けば、欽ちゃんファミリーは萩本欽一のいわゆる正統な弟子ではない。それに対して、たけし軍団は純然たる徒弟制度のもとに成り立ち、親分子分の盃がある。ビートたけしがフライデーを襲撃したり、バイク事故を起こしたり、上皇明仁の前で表彰状ネタを披露するとき、萩本欽一は仮装大賞の司会をしていた。たけしは自らが人気者になったあと、浅草のコメディアンたちの師匠格でありながら、テレビや映画には出なかった、一般的には知られていない深見千三郎の名を知らしめた。萩本欽一は兄弟子の東八郎を師とするが、ほんとうはすべての浅草ストリップ劇場出身のコメディアンの師が深見千三郎だった。たけしがバイク事故を起こしたとき、萩本欽一は「たけし、また一緒にコントやろうよぉ」と言った。たけしは萩本欽一にツッコまないしボケもしない。たけしは萩本欽一を「あの人はプロデューサーだから」と評する。萩本欽一はコント55号時代から坂上二郎をサディスティックに動き回らせるフリートーク的なコントをする。コメディアン的でも漫才師的でもなく、プロデューサーが舞台の上にいるのである。お笑いに限らず、すべての芸能や芸術には、あるあるネタが含まれる。「共感」と「理解不能」が融合して臨界点に達するとき、人は「笑う」からである。しかし、萩本欽一や小堺一機のあるあるネタはマジョリティのあるあるであり、ビートたけしのあるあるネタははぐれ者の情けなく愛すべき青春の断片であり、つぶやきシローやふかわりょうのあるあるネタは過ぎ去っていく日常の断片であり、コウメ太夫やレイザーラモンRGのあるあるネタはパロディとしてのメタあるあるネタだった。火薬田ドンが池に落ちる束の間、唐十郎がお約束の水槽に潜る束の間、野坂昭如が大島渚に殴りかかる束の間、タモリが「笑っていいとも!」の最終回で普通に真面目にスピーチする束の間、かつて高天原で天の岩戸が開いた瞬間のような芸能の根源を見る。もうまったく漫才の話ではなくなっているかもしれない。こうなって来ると、あらゆる二者間のやり取りが漫才に思えてくる。昭和35年、右翼少年の山口二矢は、壇上で演説する社会党の浅沼稲次郎を短刀で鮮やかに殺傷した。その後、山口二矢は自決した。だが、浅沼は社会党の大物でありながら昭和天皇を敬愛していた。これは漫才のようではないか。昭和43年、三億円事件の犯人を捕まえるために、警察は武蔵野地域でローラー作戦を展開した。しかし犯人は見つからず、時効を迎えた。じつは犯人は警察官で、だから揉み消されたという説がある。これは漫才のようではないか。三島由紀夫は自衛隊市ヶ谷駐屯地のバルコニーで、「貴様らが守っているのは貴様らを否定する日本国憲法だ。なぜ疑問に思い、立ち上がらんのだ。俺は貴様らが立ち上がるのをずっと待っていた」と叫んだ。自衛官は「ではなぜ、我々の総監を監禁し攻撃したんだ」と言った。すると三島由紀夫は「私を攻撃したからだ」と答えた。これは漫才ではないか。いや、ブラックなコントだろうか。ビートたけしと永山則夫が同時期に勤めていた新宿のジャズ喫茶ビレッジバンガードで毎日すれ違っていたのも、漫才のように思えてくる。ウディ・アレンは完全に漫才だろう。何が言いたいかというと、いわゆる二人で喋る漫才が演芸でいちばんかっこいいものであり、笑いの代名詞のように語られるみたいな昨今の感覚が私にはわからないのである。M-1グランプリ的な感覚が私にはまるでないのである。私はピン芸のほうがかっこいいと思うのである。でも私は夫婦漫才に興味がある。
麻生太郎「カップラーメンってのは1000円ありゃ買えんだろ?」
松本人志「逆にどんな漫画を読んどんねん」
安倍晋三「わたくしと妻は別人格ですので、わたくしに大麻について質問されてもお答えのしようがございません」
昭和こいる「あー、はいはいはいはいはいはい」
菅義偉「オリンピックをやめることはいちばん簡単なこと。挑戦するのが政府の役割だ」
夢路いとし「オリンピックが本名。五輪というのは戒名かいな」
岸田文雄「成長の果実を分配せねばならない!」
大木こだま「そんな果実ないわ〜」
漫才は最近は子供からの友人がコンビになったのが多いが、昔は親子漫才や師弟漫才も多かった。あした順子・ひろしは夫婦ではなく師弟だった。夫婦漫才はツービートの師匠である松鶴家千代若・千代菊、地下鉄漫才の春日三球・照代である。ミヤコ蝶々と南都雄二は実生活では離婚しても、数年間は舞台の上で漫才コンビを続けた。横山やすしはダウンタウンを「チンピラの立ち話」と酷評し、松本人志はのちに「チンピラの立ち話で何があかんねん」と反論し、横山やすしを揶揄したキャラクターをコントで演じた。やすしきよしもまた、神に奉納する本来の萬歳とは違うものである。横山やすしの言葉の意味は、漫才への批評というよりも、本物の任侠と交流した横山やすしからすれば松本人志と浜田雅功がチンピラに見えたというだけの話だろう。かつて萬歳から漫才になったとき、すべての漫才は立ち話だ。では人と話すことが素晴らしく面白いことならば、そして人という生き物が虚構と現実が折り重なる瞬間に面白さを感じるのならば、漫才の中で夫婦漫才がいちばん素晴らしく面白い立ち話であるはずだ。サザンオールスターズのデビュー曲「勝手にシンドバッド」で、原由子が「いま何時!」と聞くと、桑田佳祐が「そうね大体ね〜」といいかげんなことを言う。原由子がもう一度「いま何時!」と聞くと、桑田佳祐は「ちょっと待ってて〜」とまたしてもいいかげんである。「勝手なシンドバッド」という題名は、当時流行っていた沢田研二の「勝手にしやがれ」とピンクレディーの「渚のシンドバッド」をくっつけただけの、じつにいいかげんな、漫才のオチのようなものだった。のちに桑田佳祐の別名義である嘉門雄三の嘉門を譲り受けたのが、落語家の笑福亭笑光だったが笑福亭鶴光から破門されて替え歌シンガーになった嘉門達夫(現在は嘉門タツオ)で、「はるばる来たぜ函館」を「キャラメル拾たら箱だけ」と替え歌するキレの鋭い笑いは、漫才のボケとツッコミを同時に瞬時にやっている。M-1グランプリのテツandトモの話に戻るが、審査員や観客や視聴者が違和感を抱いたのは、決してギター歌謡漫談がしゃべくり漫才の中で異質だったからではなく、「昆布が海の中で出汁が出ないのなんでだろう」に対して解答もツッコミもせず、一人はギターを奏でて美声を唸らせ、一人は珍妙な動きで踊り続け、さらに二人ともスーツでもタキシードでも着物でもなく、ジャージを着ていたからではないだろうか。ちなみに、昆布が海の中で出汁が出ないのは、海水は冷たいからではないだろうか。違うかしら。さかなクンなら答えを知っているのだろうか。東京の笑いには本来、ツッコミは必要がない。だからビートきよしも田中裕二も「そんなわけないだろ」とほんとうには思っていない。そんなわけないことを言い続けるビートたけしや太田光を全肯定である。所ジョージがギターをポロンと爪弾きながら、「雪だるまって、まん丸い〜」と歌うだけで、それで万事快調(by ジャン・リュック=ゴダール)な面が多分にあるのである。笑福亭鶴瓶、明石家さんま、松本人志の3人が上方芸能を超えて日本を制覇したのは、否定のツッコミを超えていたからである。どんなに関西的ツッコミが列島に浸透しても、東京の時間は、志村けんと柄本明の芸者コントのように、虚実の皮膜を発光させながらゆっくりと妖しく過ぎていく。漫才よりもコントよりもコントみたいな漫才よりも漫才みたいなコントよりも。まほうつかいのナンバーワンを決めるM-1グランプリで優勝したい。
おしまい♡
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