自分史

性同一性障害(FTM)である自分の生い立ちや治療歴について綴ります。誰かに向けた訳ではなく記録として残す予定です。


平成13年生まれ。
長女かつ第一子として産まれました。3年後に弟が産まれています。

幼少期の性違和エピソードとしては、プリキュアではなく戦隊ものが好きで、トーマスなどでよく遊んでいました。幼稚園のバザーの時に戦隊ものの剣を買った所後ろにいた全く関係のない男の子を弟だと勘違いされ「これは後ろの弟くんのものかな?お名前なんて言うの?」と聞かれ、自分で買ったものなのに全く知らない子のものになりそうなことがあり不快感を覚えました。

小学生時代はスポーツ少年団に所属しバスケットボールをしていました。スポーツをしていたのでそれなりに足も早く長距離走が得意でした。陸上記録会の長距離走選手に選ばれたこともあります。水泳もしていたので水泳記録会の選手に選ばれたこともあります。運動神経がある方ではあったのですが読書がとても好きで休み時間は校舎の中で図書室で過ごすことが多かったです。

中学生時代からは制服の着用が始まり、男子は学生服女子はセーラー服となりました。私が通う中学では午後は全員体操服、登下校も運動部は体操服可能、午前中も技能教科がある場合は体操服可能で行事がある時以外は基本的に体操服で過ごしていました。なので制服に対する違和感はあったものの耐えられるレベルでした。
仲良くしていた友達は男女半々位で趣味を通して仲良くなったグループがあり学校でも学外でもよく遊んでいました。本当に男女半々位で仲が良く大きく見ると男10人女10人位で中が良かったです笑
中学一年生の頃に初めて女性を好きになり当時はレズビアンという言葉を知らず、何も隠さずに過ごしていました。しかし、友人に好きな人誰?と聞かれた時に好きになった女の子の名前を告げると「冗談でしょ?レズ?」と言われたことがありそこでレズビアンについて知りました。この頃には性別に対する違和感がかなりあったものの性同一性障害の言葉を知らず、戸籍も出生も女性であり女性として社会生活を送って居た以上私はレズビアンなんだと認識しました。中学生時代は性別に違和感がありながらも女性が好きなことは隠すことなく過ごしていました。中学3年生の後半にLGBTやトランスジェンダー、性同一性障害について知りスマホを買って貰った後に詳しく調べ始めました。当時付き合って居た女性や保健室で仲良くなった後輩に、性別に違和感があることを打ち明けました。

高校生になり、色々な情報を得るようになりました。Twitterで同じような当事者の方と繋がり、治療や改名、戸籍の性別が変更できることを知りました。
まずは両親にカミングアウトをすることから始めようと、手紙に書き渡しました。学校に行く前に手紙を渡し帰ってきた時には話を振られるかなと思いましたが何もありませんでした。それからは何も触れられることがなくなかったことにされてる?と思いました。
診断書があれば直接カミングアウトがしやすくなるのではと思い、平成30年1月26日に東京のクリニックに行き性同一性障害の診断書を頂きました。当時は岩手県に住んでいたので夜行バスで東京に向かい新幹線で帰宅しました。貰ったお年玉をすぐこれに使ったので金銭面は大丈夫でした。
診断書は貰えたのですが直ぐに両親に言うことは出来ず時間が経過してしまいます。同年4月1日に医療費の明細書が届いていたらしくリビングに呼ばれ両親からこのクリニックの明細はなんだと聞かれました。その時に診断書を提示し性同一性障害であることのカミングアウトが出来ました。自分も両親も泣きながら話したのを覚えています。

その前から高校の先生にはカミングアウトしていたのですが制服のスカートで過ごしたくなかったため、ジャージで生活するための許可を得ようと行動しました。
一筋縄では行くことはなく、高校二年生の時の担任の先生、学年主任、カウンセラーの先生、副校長先生、校長先生、そして両親と自分自身を含め話し合いを重ねました。
私が通っていた高校では男子制服がなく(名目上では共学なんですけどね)ズボン着用などは難しかったため、異装届けで生活の全てをジャージで過ごすことの許可を頂きました。
先生に話をもちかけてから約1年半かかりました。高校2年生の12月からジャージ生活が始まりました。式典の時などは制服着用必須でしたのでそこは我慢しました。

高校三年生はそのまま過ごし、大学も決まり卒業が近づいてきました。私は大学生活は男性として埋没して過ごしたいと考えていたため入学から逆算して3ヶ月前くらいから治療を始めたいと考えていました。
センター試験が1月に終わり、直後に両親にホルモン注射を始めたいことを打診しました。しかし、母親に言ったら父親に言え、父親に言ったら母親に言えとたらい回しにされました。そんなことをしていては治療に漕ぎ着けないので、ホルモン注射を打ったことによるメリットデメリットの提示、治療をうけようと思っている病院はどこで何が必要なのか両親の同意は必要なのかなどを確認し伝えました。最終的には許可は取れました。注射を打てる場所が1箇所しかなかったため、田舎は生きづらいなと感じました。ホルモン注射を打つにあたって診断書が必要で両親の同意は特に要らないことを伝え、早く打ちに行きたいと言いました。当時保険証は親管理であったため保険証がなければ自費診療だとしても病院に行けなかったので、保険証下さいと何回も懇願していました。ですが、保険証はくれませんでした。今日打ちに行くと伝えた日は学校に行く用事がありました。家に帰ってくるとリビングの机の上に保険証が置かれてありました。言葉では示してくれなかったけれど保険証が机に置いてあったことから両親から許可が出たと理解し令和2年1月30日に初めてのホルモン注射を打ちに行きました。
ホルモン注射を打ち始めて1ヶ月で卒業式があったのですが担任の先生は私が治療を始めた事を声で気づいたらしく、これからの人生を頑張ってねと言ってくださいました。先生には沢山お世話になったので感謝しています。

卒業後、大学進学で宮城県に住みました。
ホルモン注射を打つ病院は宮城に住んでいた先輩に聞いた病院にしました。1度打ったことがある人しか受け入れていないクリニックでした。

大学には通称名使用と学籍を男性として登録して貰う旨を入学前に話していました。
通称名使用の許可が降り学生証も通称名で作られました。
性同一性障害による改名を行うために通称名を使った使用歴を約2年分程集め、学生証はかなり強力な使用歴になるので必要書類を揃え令和2年5月に仙台家庭裁判所に提出をしました。5月27日に面談が行われ30分ほど性同一性障害だと気づいたきっかけや現在の治療歴、名前は現在どこで使っていてどこでは不便なのかなどを話しました。2日後に改名許可が降り審判書を持って市役所に行き色んな手続きをしました。手続きにはかなり時間がかかりますし改名をしてから3年以上も経っているのにまだ変更が終わっていないものもあります笑

令和3年2月13日に乳腺摘出手術を行いました。当時は未成年(19歳)で親の同意が必要だったので両親に胸オペを行いたい旨を伝えました。コロナが流行っていたという理由でまだしなくていいんじゃないかと言われましたが胸があることの嫌悪感が大きかったのでお金が貯まり次第直ぐに行いたかったためコロナ禍でしたが行いました。
手術自体は616000円でした。保険がきいて56000円戻ってきました。日帰りで行ったので近くのホテルにて3泊しました。ドレーン除去は翌々日、抜糸は仙台に戻り一週間後に行ないました。

その後は特にGIDに関する手術は行わずSRSを受ける為に令和3年6月にセカンドの診断書を取得しています。
SRSをせずに戸籍変更はしたのですが、今後SRSはする予定なのでこの診断書は必要になって来ると思っています。

そして令和6年1月22日に仙台家庭裁判所にて戸籍の性別を女から男にすると認められました。

一旦ですが以上私の自分史となります。随時更新するかと思います。

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