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そうか、私は救われたんだ

ここ1ヶ月、音声配信アプリ、Voicyで近藤弥生子さんが高い頻度でEQについて、語られている。

台湾のEQの話

昨年の12月ごろから少しずつ語ってくださっている間、心地よさを感じていた。その流れで出版された「EQリーダーシップ」(勝手に #台湾EQ本  と呼んでます)は即予約。
呼んですぐに読書記録を書いた。

感じたことは書いた。なのに、全部を書ききれていない感じがして、落ち着かない。

書ききれないこと

あの日から10日。その書けていなかったことが突然、判った。「私は救われていた」という事実に、気づいたのだ。

近藤弥生子さんがEQのことを語る際、バウンダリー(境界線)の話をされる。自分と自分以外。
このバウンダリーが私は小さな頃からはっきりしていた。共感性が高くなった学生時代、誰かに共感することや感情が伝染してしまうこともあった。けれど、元々持っている気質は変わらない。
親が怪我をした時に泣く兄の横で「なんでお兄ちゃん泣いてるの?お兄ちゃんは痛くないでしょう」と言ったらしい私。この時の話を持って母親に「冷たい。性格悪い」と言われ続けていた。
2人の子どもがかなりひどい胃腸炎にかかった時。悲しみもなんとかしてあげたいという気持ちで看病をした。
そんな話をママ友にした時「代わってあげたい!って思うよね」と言われてハッと気づく。
代わってあげたい、とは思ったことがない。むしろ自分が倒れてしまったら、子どもたちを放置することになるし、看病もできないから、絶対にうつされないぞと強く思っていた。
そんな時に、自分はやはり冷たいのかな、という考えがよぎる。

ここ数年は、自分はそういう感覚の持ち主なのだと受け入れて過ごしていた。
だから、この気持ちに気づけなかったのだと思う。
「冷たい」自分でいいと考えているその下に、どこか不安もあったのだ。
友人や親のために泣かない自分や、何か、あったときに共感しつつ同時に、物事を分けて解決しようと頭が切り替わってしまう自分は、ちょっと感情が欠落してもいるのかもしれない。
そんな思い。

境界線があることは悪いことじゃない

もちろん、台湾のEQが高い方が、私のように冷たいわけではないのは理解している。むしろおせっかいな鶏おばちゃんや、実の親以外に大切にする第2の母の存在など、とてもハートフルな方々なのだ。
けれど、バウンダリー(境界線)ははっきりしている。
その共通点だけで、境界線があることは悪いことじゃないんだと思えた。それはいいことだと近藤弥生子さんが口にするたびに、私はなぜだか褒められている気さえしてきて、大げさな表現にはなるが、救われていた。

最初に気づいた時、EQの話で大切なこととして語られているバウンダリーの話で“褒められている”気持ちになるなんて、淺ましい(あさましい)、と自分を諭す。
でも実際そう感じてしまったからには、その淺ましいかもしれない自分のことも受け入れたい。
自分の中の子どもの頃の私は、もうたくさん優しくして大人になりつつあったけれど、こんなところにまだいたのか、と手を差し伸べる。

近藤弥生子さんはそんな意図なく話されているのはわかっているけれど、ありがとうございます、と伝えたい。

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