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自己開示お化けと発信のバランス

先日の記事に、少し、反響をいただいている。


ガス、電気が止まる生活。実際に何度もあったし、書いていないことも多いのだけれど、
“色々な家庭があるなと思いました”
とメッセージをくださった方がいました。
どんな人生でも色々ありますよね。
と返事をした私は天邪鬼でしょうか。

恐れるのは、相手を不快にすること

昔々は、実家が“変”なことは隠していなければ、と思っていた。小学校ではまだ、給食費が封筒で集められていて、期日までに渡せるように何度もしつこく粘って母親に出してもらっていたことを覚えている。
公立校で片親の家は他にもいたけれど、総じて浮いた存在で子供の頃から「片親だから」と言われることに敏感だったのもあり、擬態に苦心していた。
今思うと、“擬態すべき状態”がどういうものなのかを知らないままにやっていたのだから、結局は大して擬態できていなかったのではないかと思うが。

大人になってくると、ぽろっと口から出た言葉に対しての反応がここをに刺さるようになった。
「誰だって苦労している」
「親は産んでくれた人なんだから大事にしなきゃいけない」
「不幸自慢」
言われた内容より、相手が不快感をあらわにしていることが伝わってきて、自分の浅はかさに恐怖を感じた。
隠さねば。
擬態せねば。
結婚してからは特にそう感じるようになる。

自己開示お化けという言葉

「人は壁を作っている間は、人と真の意味で分かり合えない。自己開示が発展の鍵だ」というような文章を目にして、少しずつ、隠すことの無意味さを感じている。
その一方で自己開示の際、自己顕示欲が高まりすぎて、自己開示お化けと称されるような状態になる人もいるのを見ると、非常にバランスが難しいなと感じるのだ。
例えば、私がよく使うこの文体ですら「上から、で冷たい印象」とメッセージをいただいたことがある。
ですます調になるときとそうでない時の差は、自分がどこから見ているかなのだろうか。私の頭の中をそのまま書いたら、ですます調にならない。気にして全部をですます調に変えようとして、文章がおかしなことになったりする。これもまた、自己開示の一つ。
努力をしない言い訳になるのだろうか、と不安になりつつ書いている。

それでも発信した理由

それでも発信しているきっかけは、2つある。
1つは、豊中市のこども審議会の委員を2年間務めた時のこと。
こども園の待機児童など未就学児のイシューが多い中で、虐待やマルトリートメント(不適切な養育)、ヤングケアラーなども話の中に出てくる。それに対する市の対応がとてもじゃないが現場に即したものではない(接する機会が少ないために起こるギャップ)と感じたため、少しオフレコの場でお話をさせていただいた。
豊中市の方は実際にサバイバーの話を聞くことは、今現在苦しんでいる人にとって、励みになるし、自分たちも勉強になる、と言う。
そう言われた時に、真っ先に私の口から出たのは「盛ってるんじゃないか、とか不幸自慢だと言われるのが非常に怖いんです」だった。

その時、自分の気持ちに気づいた。
それまでは“離れていると言っても親は生きている”とか“パートナーの親や兄弟に知られたくない”と思っていた。これも本心だけれど、実はもっと本質は、自分が再度傷つきたくなかったのだと。

その時の会話から1年経ち、音声アプリvoicyでさわなおさんのチャンネルに出会う。

さわなおさんはご自身の発達障害やアダルトチルドレンであることを開示している。多くのコメントからリスナーの共感を感じ、私もちょっとずつ小出しで自分の経験や、そこからくる子育てにおいて考えていることをコメントするようになった。
コメントを続けることで、同じリスナーさんやさわなおさんからの温かい返信があり、自己開示することへのハードルが低くなったのが2つ目の理由だ。

誰かの励みになるかもしれない。
そんな気持ちだけで今は、記事を書いている。
私がこの先、自己開示お化けになってしまわないとも限らない。そうならないよう気をつけながら、少しずつジャブを打ちつつ、発信していきたい。


食べるのに困った家庭に育っても、今生きているのは、私の「運の良さ」のおかげだ。
くじ運はすこぶる悪いが、何年かに一度現れた出会いが私を大人になるまで生かしてくれたし、パートナーに出会ったことで、チェコ共和国に6年半住めた。
そして帰国してから、ママ友とやらをほとんど作らず来たけれど、それなりに楽しく暮らせているのは、お付き合いできている人が、付かず離れず良い関係だからだ。

生きているからこそ感じることができる「運の良さ」だ。

気に入っていただけたら嬉しいです。 受け取ったサポートはサロン運営、ママの居場所を作るボランティア活動、さらに私が成長するための書籍代として使わせていただきます。