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赤い瞳の聖なる獣

大人になるということは何かを絶望的に知ることだ、と、あの頃よく日記に書いていた。知ってしまえばもはや、私たちはどこにも行けない。その多感さゆえの混乱の中で私は、世の大人がしらけたようなつまらなそうな顔をしている理由を勝手にわかったような気になり、それよりずっと手前の場所にいながら、似たような顔をすることで生きることを誤魔化していたような気がする。


大学二年の夏、私はKと友人Mを通じて知り合った。同じ学科に属するMは私と同じワンルームマンションの二つ下の階にいて、サークルや知人が来て盛り上がった時や独りで寂しくなった時、夜中だろうが朝だろうがおかまいなしに電話一つでしょっちゅうお互いを呼び合っていた。

Mの部屋で会う殆どの人は皆知り合いなのに、その夜、部屋で出迎えたKの顔に私は全く見覚えがなかった。冷房が効きすぎた部屋は乾き物とアルコールと、何故だか卵焼きの匂いがしている。「Mちゃんの焼いた卵焼き、よかったらどうぞ」私が持参した発泡酒を律儀に丸テーブルに並べながら、こんばんは、でも、はじめまして、でもなく、Kがぼそりと呟いた。海みたいに低い声が、友人が好んでかけている洋楽CDに重なる。私は曖昧に笑ってベッドに腰掛けた。Mは酔うとやたらと料理をする癖があるが、お世辞にもあまり美味しくはない。

もっとも、料理どころか家事全般が苦手な私に偉そうなことは言えなかった。料理好きでもてなし上手な田舎の母に全く似ていない私は、幼少時からそのことで密かにコンプレックスを抱いていた。法事や何かの集まりのたびに親戚に「お母さんを見習わないとね」と言われるのが嫌で、実は東京に来てから一度も実家に帰省していない。

「いいじゃないすか別に。俺は好きっすよ」

一瞬何のことかわからず顔を上げると、Kと目が合った。白熱灯の淡い光のした、彼はさっきから私を見ていたらしかった。「K君、イケメンでしょ」口を開こうとしたところで頭上でMの声がし、「知ってた、この人うちらと同じ学科なんだよ」友人の切ったきゅうりの青い匂いが、私たちの間にあったものを消した。

「俺、月に一回ぐらいしか大学に行ってないから」

Kは盛大な音を立てて空き缶をつぶす。長い指。相当酒が強いのか、どれだけ飲んでも顔は陶器のように白かった。

MはKと随分前から同じ本屋でバイトしていたが、同じ学科と知ったのはごく最近だという。「聞けば聞くほど変わってる子だから、あんたと気が合うかと思って無理矢理部屋に連れてきたの」「無理矢理?」Kは綺麗に揃った歯を見せた。「そう、無理矢理ね」Mが言うのだから、確かに変人なのかも知れない。友人は大学内外に沢山知人がいるが、案外こだわりが強く繊細なことを知るものはあまりない。誰にでも適当に話を合わせながら、実はカーテンを閉め切った部屋で独り一日中映画を観たり本を読んだりするのが好きなところも似ていた。

「Fさんは小説書いてるって聞いたけど」

私がちらりとMを睨むと、彼女は私の反応など想定内、という風に肩をすくめる。「なんで隠すの?俺そういうのふつうに尊敬するけど」急にくだけた物言いをしたKに、私はむうとして下を向いた。自分が本気で小説家を目指していることは、実はMにも話していない。単なる読書好きの趣味だと誤魔化すことで、才能のあるなしを他者にジャッジされることを巧妙に避けていることに、うっすらと自覚があったせいもある。

だがこちらの変化もおかまいなしに、Kはかすかに熱を帯びた声で勝手に話しはじめた。「俺、ヘミングウェイの『老人と海』が大好きで。中学で読んで以来、あの話の中身のすべてが理想で、あれ以上の小説はないと思ってて」小説はSFしか読まないMは、興味なさそうにぼんやりときゅうりをかじっている。

「老人が、巨大な海でたったひとり、カジキに襲いかかるサメの群れと闘うんだ。老人はカジキをサメに食い尽くされながら、むせかえる血の匂いの中でアフリカのライオンのことを思い出す。人間は弱肉強食の自然の中ではもっとも弱い存在だから、所変われば自分もカジキのように無残に殺されるだろう。だけど、本当は死なない」

「どういう意味?」きゅうりを口に入れたままMが頸を傾げる。説明が難しいんだよ、とKは笑う。「理由は特にないんだけど、というか、理由はあるんだけど、俺が言いたいのはそこじゃなくて・・・」「わかるよ」と私は言った。「あたしも読んだ時、同じ事思ったから」Kに似せたつもりなどないのに、声が掠れる。「本当は死なないっていう、あの話はそこがメインでしょ。だけどそういう話、」あんまり通じないよね、という言葉が目の前の人と重なった。

ほんの少し間があった。「そう…なんだよね」再びのKの声はさっきより湿っていて、私はたぶんそのことを、ある程度予想していたような気がする。「…これっていう人に、何度か話したんだけど俺も。だけど中学でも高校でも、結局あんまりわかりあえなくて」だから大学にも行ってないわけ、と私が聞くと、「勿論それだけじゃないんだけど」と小さな声で答えた。

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私とKは、それから何度かMの部屋で会って飲んだ。Kは酔うと必ずヘミングウェイの話をし、私は知ったかぶりをしていちいちそれにコメントをつけ、Mはつまらなそうに立ち上がり、キッチンで卵焼きを焼いた。Kの声は相変わらず低く、割れて掠れていて、どれほど酒を飲んでも、陶器のようにつるつるした、まるで海底でひそかに息をする貝殻のような白い顔をしていた。

「そういうの、卑怯って思うことない?」その夜、少し悪酔いしていた私はKに意地悪を言った。「小説の中身をわかり合えないことと、現実を同列に見るようなことって。自分の扉締めて、細く開けた窓から世界を眺めてるだけじゃ、他人に対して強いふりすら出来ないじゃん」相変わらず友人を作らず、バイト仲間にもほとんど心を開かずにいるKに、少し苛ついていたのかも知れなかった。私のきつい口調に気付き、Mはちら、とKを見た。Kは返事をせず、部屋の中は静まりかえった。

怒らせたかな、と思ったとき、Kが口を開いた。だけど、と、彼は言った。「だけど、なんで俺たち、強いふりをしなきゃいけないんだろう」

私は返事が出来ずKを見た。Kは私ではなく壁の方を向いていた。Mはジーンズのほつれを触るふりをして、三人ともしばらく口をきかなかった。


Kが独りで私の部屋に来たのはそれからすぐ後のことだ。冬の始まりで、薄く開けたベランダの窓から、屹立したような冷たい匂いが紐のように入り込んでいた。Kはその夜、珍しく老人の話も魚の話もしなかった。

Kの長い指が静かに私に触れるのを、私はなじみの小説を読むような気持ちで眺めていた。レースのカーテン越しに楕円の月が見え、それはおぼろにかすんでいた。

近くで見ても、Kは本当に整った顔をしていた。長いまつげの影が傷つきやすいつくりもののように頬を縁取っていた。だが見た目とは裏腹に、Kの身体は火で炙った鉄の棒に触れているように熱かった。

ぽたり、と、額に汗が落ちた。薄目を開けると、それは汗ではなくてKの涙だった。Kは両の目を開けていたが、私を見てはいなかった。私に触れながらどこか違う、遠い場所を見つめ、そこに行こうとしていた。ぞっとして思わず声を上げそうになった。Kにくみしだかれた脚をほどいて、逃げ出したい、と思った。

Kは私の変化にすぐ気づいた。そして穴のような瞳で私を見下ろしたまま、私の首を片手で絞めた。目の前がまだらに赤くなり、視界のあちこちがちかちと点滅し、それから黒くなった。

だけどなんで俺たち、強いふりをしなきゃいけないんだろう。

いつかの、彼の声が聞こえた。知らない遠い海でサメと闘う孤独な老人と、真っ暗な独りの部屋でそれを読む、Kの幼い後ろ姿が見えた。

次に目を覚ました時、Kはベッドに腰掛けて窓の外を見ていた。広い背中が、奇妙に白く浮き上がっている。

「Fちゃんが同じ学科にいたのは、もうずっと前から知ってた」突然Kが呟いた。「Mちゃんと友達なのも知ってたよ」遠くでクラクションが聞こえた。待っていたが、Kは次の言葉をいつまでも言わなかった。ばれているのだと、と、私は唐突に思った。私が嘘を吐いていることを。ヘミングウェイを愛する、Kのほんとうをわかっているふりをしていることを。

そうして何より、Kの中に、私が私自身の姿を見て怯えていることを。


そのとき、Kの声がした。

「いいじゃないすか別に、俺は好きっすよ」

いつかと同じ言葉を言ったKの声はとても震えていて、彼がさっきからずっと泣いていたことに、私はようやく気づいた。


Mから、Kがバイトを辞めたらしい、と聞いたのは、それからひとつき後のことだ。大学を卒業するまで、Kは私と一度も会うことはしなかった。私もまた、彼に会いに行かなかった。電話もメールもしなかったし、向こうからかかってくることもなかった。


あれから、大人、と呼ばれるには十分な時が過ぎた。

今でも冬のはじまりのまるい月を見るたび、あのときのKの獣のような体温と涙に濡れた赤い瞳と、そこに映っていただろうかたくなな自分の姿を、昨日のことのように鮮やかに思い出す。