講釈をたれるお爺さん

こんにちは、yuuです。

私の父と祖父は、よく二人で飲みかわすと講釈をたれていたように思う。
内容は仕事のことであったり、人間関係のことであったり、政治や世論的なことであったり。
特に結論は出ず、時に熱くなりながら議論を交わしていたように思う。
実際は、二人の酔っ払いが好き勝手自分の考えを垂れ流していただけかもしれないが。

小さい頃は、酔っぱらって小難しい話を男二人がしている様子が、少し怖かった。ただ、祖父は私が話しかけると相好を崩し、話を中断してくれたので、なんか難しい話してそうだけど、実は大したことないのか?なんて考えたりしていたように思う。

自分が酒を飲むようになってからは、講釈をたれる大人の話も、時にはおもしろいものだと感じるようになった。
父や祖父以外にも、講釈をたれる大人は沢山世の中にいたし、私も自分の意見をぶつけたりすることで、その場に参加しているという実感はあった。

講釈をたれるという言葉は、老害のような存在がこれ見よがしに自分の意見を押し付けているような印象を受けるのだが、実際はディベートをしていると捉えることもでき、日本人が苦手としている部分であるかもしれないと思っている。

ディベートとの決定的な違いは、目上の人の話は従わねばならぬ的な、儒教に基づく年功序列の風習のため、目下の人は対等に意見をしない場合があるという点であろう。
これがなければ、講釈をたれあうのも、なかなかに社会勉強になると思うのだが。

自分の考えを相手に伝える、相手の考えとの違いに目を向け理解する、違いを受け入れるために妥協点を見出す等、一つの事柄について話し合うことは非常に有意義なことだと思っている。

ただ、日本ではこの「話し合う」機会が圧倒的に少ないのだろう。
学校の授業で、みんなで話し合いましょう、という展開はよく見受けられる。
小学3年生くらいまでは、結構自由に意見交換がなされていたりして、道徳の授業参観などはおもしろいと感じることもあった。

しかし、思春期に向け自我やその他諸々の面倒な感情を内包する年頃になると、当たり障りのない意見や正解だと思われる意見を出し合うことで時間が消費されることもあるのではないか。

自分の考えを相手に伝える訓練の場が、もっとあっても良いのではないかと思う。
それが部活動であったり、はたまた家庭内である場合もあるのだろうが、個人の活動にゆだねられてしまうので差が出てくるのは当たり前だろう。

自分の子どもには、何を考えているか伝える力が付くよう、私自身の行動の理由を言語化して伝える努力はしている。
さっき怒ってしまったのは、あなたに○○のことで腹が立ったからだ、本当はこうしてほしかったし、出来ないならその理由を教えてほしいんだよ、的な感じか。

果たして親の思いが伝わっているのか、伝え方が正しいかはわからないが、気長に伝え続けようと思っている。
いつか講釈をたれる老害になるのではなく、互いに対等な意見交換ができる存在でありたいと思う。たまには講釈にも付き合ってほしいが。

今のところ、あまりしつこく意見を求めると「何にも考えてないよ」とか言われてしまうので、ほどほどにしようとも思うのだが。

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