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いつか迎える死のための(21)-アフターコロナなんてない-

4月22日(水)午前中は気持ち良く晴れ、午後から雲が多くなり雨が降りそうな夕方。気温は少し低く、スプリングコートがあってちょうど良い。午前中に2件のオンラインミーティングをし、家で昼ごはんを食べたあと、娘と散歩にでかけることにする。

一駅ほど歩いたところにある大きめの公園には親子連れも多く、外ではあるけれど人口密度は高くなる。家に閉じこもってばかりいられない子供たちを思うと、公園でくらい遊ばせてあげたいと思う一方で、これでは接触の可能性も高くなるなと心配に。バランスの持って行きどころが難しい。

近くのスーパーマーケットもそう。小池都知事も入店人数制限が必要と言ったそうだが、食料品を買うという不要不急で密になってはどうしようもない。諸外国のように入店の整列にも間隔を設ける必要がある。自発的には難しそうだ。

この状況を耐えていたら、ウイルスの脅威がいつか消えて元に戻るからそれまで頑張ろうという風潮で、今それぞれが辛抱しているのだと思う。私もそう思っていた、だからこそ、前のエントリーではアフターコロナという単語を使って、その先を考えようとしていたのだ。

でも、今はその考えが間違っていたと思う。

アフターコロナなんてない。

元には戻らないのだ。

この歴史の中で、何かが始まった時、そしてそれが終わったと思われる点で、元に戻ったことなんてない。出発点から始まって、その流れがすでに”アフター”なのだ。変わった時点でそれは終わったことなのだ。

アフターコロナなんてない。いわばもう今がアフターコロナ。

だとしたら、終わりまで耐えるという考え方自体が間違っていることになる。今の延長がその先の自分なのだ。今は何もしなくてもいいわけじゃない。何かを耐えてじっとしてるだけの時間ではないのだ。

では今私はどうしたらいいのだろう。

すでに私の友人たちは新しいことを始めている。同じ女性起業家でも先を見据えてこれまで取り組めていなかったことを始めた。やりたいことを今だからできることに変えて。ある演奏家は結婚をした。お腹に赤ちゃんを授かった人もいた。時は流れ、すでに変わった世界に私たちは住んでいる。

こんなにも時間を与えられているんだ。考えよう、もう少し深く。自分の中を深く掘り下げる。そしてもう少し視野を広げよう。今世界がどうなっているか。考える。いや、自分の気持ちを感じよう。今まで無理だと思っていたこと、蓋をしてきた気持ちにもう一度向き合おうと思う。何ができるか。何がしたいのか。何が本当は好きだったのか。どう生きて行きたいか。現実的じゃないと思って諦めていたことを取り戻そうと思う。現実的じゃないのは、この現実のほうなのだから。

ここから飛んでいくんだ。このタンポポの種のように。

来年、私は違う場所にいる。

日本の感染者数 11,602名。死者 286名。


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