春の雷 ーはるのらいー

 無窮むきゅうの闇を旅している。
 何光年、あてどなくめぐり、通り過ぎた。彼方に自分と同じ小惑星がちらほらと見えたこともあるが、出会ったことはない。
 ひとりきりで、自分の終わりも知らぬまま、果てなき闇を渡っていく。
 恐ろしいものは何もなかった。闇は生まれたときからすぐそばにあり、そのなかを進んでいくことはさだめられたことだったから。
 だからあんなにも美しい光があることを知らなかった。それを光とよぶことさえも。
 
       *
 
 いつからそこにいたのか。
 軌道のむこう、遠くに見えた星は巨大だった。やわらかな白色やあざやかな茶色が繊細に編みこまれた、壮麗な星。
 きっと近づくことも、まじわることもなく、このまま旅をつづけるだけだろう。そう思っていた。
 だがわずかな距離を進んだとき、何かがおかしいと気づいた。進んでいるようで、進んでいない。
 軌道からそれていく、とわかったときには遅かった。その巨大な星に囚われていた。
 思うままに進むこともできず、まして逃れることもできず、しかし巨大な星は静かに佇んでいる。その静謐せいひつを、はじめて恐ろしいと思った。
 手をのばしたのはあちらが先なのに、あちらはつかまえたことを気にも留めていない。それがさらに恐ろしかった。
 ゆっくりと引き寄せられていく。もちろん自分の意思はそこにはない。あらがいようもなく、全知全能の神に近づいていく。
 
 
 巨大な星の両極では、円環が光っていた。
 燐光のように燃えあがるそれは、明滅しながら螺旋をえがいている。太陽系で最もはげしいオーロラであり、小惑星がはじめて見た光だった。
 電気を帯びたその粒子は、はじけるようにまたたき、りあがって燦爛さんらんと散る。静かで、ゆるぎない佇まいとは裏腹に、苛烈な星なのだと知った。
 そんな星のまわりを、衛星たちが回っている。かろやかな踊り子のようにくるくると互いを追いかけ、刻まれたステップがオーロラとなって煌めいている。――芽ぐみをことほぐ舞にも似た。
 木星とは春なのかもしれない。
 ふわりと包みこみ、あっさりと奪う、うるわしくも残酷な。
 
 
 巨大な星は自分をけっして放さない。
 無窮の闇は遠ざかっていくばかりで、今となっては光のほうがすぐそばにあった。
 囚われたときに感じた恐ろしさは、すこしずつ消えていた。
 巨大な星は何を語ることも、何を交わすこともなかったが、ゆるやかに小惑星をたぐりよせていく。その粛々とした、秩序立っているともいえる時間が、奇妙なやすらぎを与えていた。
 しかし、ときおり疑問を、あるいは不安をおぼえる。
 自分はこれからどうなるのだろう。この巨大な星のまわりをめぐることになるのだろうか。自分があの、力づよくきららかなオーロラの足跡をのこす衛星のひとつになることを夢想するのは、おもはゆい。
 それとも、あわく光る、あの薄い環の一部になるのだろうか。
 近づくにつれて、このところ見えるようになってきたかすかな環をながめる。透ける闇を織りこんだ、儚いリング。だが、あの環の一部になるためには、自分はすこし大きいように思えた。
 何ものにもなれない自分を、どうしてあの星は引き寄せつづけるのだろう?
 
 
 もうどうあっても衛星にも環の一部にもなれない。それほどまでにこの巨大な星に近づいた。
 それでも恐ろしくはなかった。けっして放されぬ手に、覚悟を決めない星はない。終焉はすぐそこまできていた。
 自分を保てるか、保てないか――ぎりぎりの距離だった。
 
 美しい嵐を見た。
 
 ひらいたのは、けつく大輪の薔薇。
 うねり、渦を回し、吞みこんでいく。
 鬱金色の奔流が瑠璃色をにじませて逆巻き、とろりとした乳白色のつぼみが縞のふちを漂い流れていく。
 太陽系で最大をほこる衛星よりはるかに大きな嵐が荒れ狂っているのに、その嵐をいだいたこの星はゆるぎもせず変わらず、静かに佇んでいる。
 ついに小惑星が砕けた。
 それはまるで春の嵐だった。
 引きずりこまれて搔きみだされて、散り散りになる。すべてが混ざり合う。ひとつのマーブルになる。
 雷鳴がとどろいている。粉々になってなお聞こえる、巨大なこの星の音。
 風がたたきつけてくる。雷が鳴る。神が鳴る。すべてを知り、すべてを成せる神。静謐で峻厳な。
 これほど近づいても、たったの一度もまじわることはなかった。
 萌ゆる緑色の稲光が裂け、吹きちぎれる雨を烈風のなかに見る。
 
 
 流れ出るものは何もなかった。
 小惑星はずっとからっぽだった。
 何ひとつもたず生まれ、ここまで来た。
 なのに最後に触れたものは、こごるほど冷たかった。
 否、触れてなどいない。ここまで引き寄せておきながら、この星は触れさせなかったのだ。
 けれども感じることはできた。この星は冷たく――熱い、その内側。
 融けるという過程さえない、灼熱。
 精緻にして苛烈な光を宿した、最も大きな惑いの星。
 そうか、と思った。
 木星が自分を引き寄せていたのではない。きっと、自分が木星に落ちていったのだ。
 何ももたず、何ものにもなれず、ただ旅するだけの自分が、最期にこの景色を見るために。
 だからさよならはいらない。
 ひとりきりで闇を進む旅は、囚われたあのときに終わっていたのだから。
 
 
 小惑星の破片が宇宙にひろがった。
 まばたきよりも速く、破片はとめどなく降りそそいでくる。そっと触れるたび熱く閃光がかがやき、刹那のうちに消えていく。
 触れ合っても、まじわることはない。さよならさえ告げさせず、熱は失われていく。
 そのとき、まるでひとしずくの涙のように光った破片が、木星を切りつけた。雲が高く舞いあがる。せつないような音が響く。
 あの小惑星は何ももっていなかった。何を遺すこともなく終わると思っていた。
 しかしたどりついたのだ。この渦巻く雲の奥を貫いて。かけらはたしかに届いた。
 それはただ一度きりの邂逅。
 まじわった証を、だれにも渡さぬように、雲の下へと沈めていく。
 
       *
 
 無窮の闇をめぐっている。
 十二年、自分とよく似た、しかし決定的に違う太陽を周回している。
 悠久の旅の通過点、彼方からおとずれた小さな星に手をのばし、恒星とは異なる光をすくう。
 ともにゆくことはめったにない。雲の下に隠した傷痕を、そっと撫でる。
 自分の終わりも知らぬまま、果てなき闇を渡っていく。
 恐ろしいものは何もない。ともにめぐれずとも、光はまた生まれ、いずれ出会うと、知っているから。



2023/11/11 「惑星巡り」参加作品(木星・短編小説)

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