チラ裏:応援の権利
アジアカップの敗退後、ネガティブな方向へと活発化するSNSを見て、同じ仲間であるはずのサッカーが好きな人たちによって「見えない繋がり」が殺された過去の出来事を思い出す。
昔話をしながらふと思った事。
矢印のやりとり:応援と受け取りの関係
応援している想いをつづったら、一般人にも関わらず感謝の言葉をくれた「ひとりのサッカー選手」がいた。
その選手からお礼をしたいと言って連絡があり、わざわざ素晴らしい品物まで送っていただいた。それはサポーター冥利に尽きる出来事だった。
当時はコロナ禍中であり、直接お礼を言う機会もなかったため、感謝と応援を伝える手段はSNSだった。
海外への挑戦やクラブの移籍も絡み、より一層直接感謝を伝えることが難しい時期だったため、「選手に声を届けることができる」便利さがあるSNSは自分にとって意義あるものとなっていた。
応援を発信し、受け取るというやり取りをするうちにその選手は精神的に頑丈でないことがすぐに分かった。順調な日はメッセージが伝わったアクションを見せてくれたし、うまくいかなかった日は受け取らない。はっきりしていた。
継続して応援している人間もそれは理解していた。
しかし、顔も見たことがない一般人の応援にもかかわらず、受け取ってくれる“瞬間”があるということ自体ありがたかった。
プロスポーツ選手とサポーターの立場であれば、これだけで十分だった。
どんな時も応援をし、それを選手が好きな時に受け取る。
今思えば、こんな事態になるなら、厚かましく親しくなるような行動をとればよかったとさえ思ってしまう。
今までの普通のが崩れたとき
ある時、その選手は努力で結果を掴み、スポットライトを浴びた。
しかし、光を浴びてからは順風満帆とはいかなかった。光を浴びた新参者に訪れたのは、飛んでくる罵詈雑言のナイフだった。
その選手を継続して観ている中で「できる事、出来ない事」「置かれている状況」を理解した上での指摘や批評も、多数の「感情論」が重ね塗りされる事で大きな否定の論調が目立つようになった。
そんな出来事が続いた中で、その選手は一般の人々との繋がりを絶った。感情の矢印自体を「受け取ることを拒否する」という決断をした。
応援していることも、同じ気持ちを共有していることも、すべてが伝えられなくなった。
伝えることができない現状でも、応援する人間は自分からの発信は続けている。しかし、心が頑丈でない選手が、自らつながりを絶った一般サポーター達の発信を以前のように見ているはずはない。
この状況はプロスポーツ選手のSNS運用の“当たり前”に戻っただけと言う人もいるだろう
一種の現代の当たり前からは逸脱した状況だったが、“自衛”を犠牲にしてまでも選手の優しさで繋がりを作ってくれる事は「応援する人」にとって、とても大切で貴重な時間だった。
灯台下暗し。壊れた応援の人権
私は「サッカーを愛する人達」ほどサッカーに精通しているわけでもない。それでも応援している選手のできること、出来ない事は理解していると思っているし、ましてやその選手を「全肯定」をしているわけでもない。
サッカーを通じて人の成長を見守り、応援しているだけなのだ。
だからどうか、自分の楽しみや快感のためだけに他人の人生を巻き込まないでください。
これ以上、マイノリティとして生きている人間の小さな繋がりを邪魔しないでください。
選手を邪魔しないように、世間の大きな声に角を立てないように応援している人として“小さな見えない繋がり”を糧に生きていたのに、それも許されないのですか?
私たちはあなた方が振りかざす、身勝手な価値観という異常な正義の犠牲にならなければいけなかったのでしょうか?
これ以上、応援の手軽さが言葉のナイフの手軽さに負ける事がないように願って。
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