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志を振り返る!  思春期放浪編


上記の続きです!

前回のラスト:乳母車事件を契機に、理男少年は、ガラッと変化した。「自分がそうしたいと思い、そうするように努力すれば、必ず己を変えられる。理屈でなく、体験でそれを発見した」と語るように、おとなしかった少年も、大人に対しても、自己主張ができるとまでに大きく成長したのだった。。。

成功と失敗、すなわち挑戦する勇気を発露した体験は、大きく人を変えるということをここから学ぶことができる。

そして、ここからも怒涛のような人生が加速していくのであった。

④1923年  12歳 最初の家出

物心つかない頃から、転々としていた生活で、定住に執着のなかったのか、12の年で家出をする。岡山〜下関〜東京と長距離のものであった。

家出で行き着いた東京で丁稚奉公をしていた中野少年は、1923年9月1日、関東大震災に被災する。なんとか生き延び、その足で、樺太へと向かったのであった。

最初の下関と樺太の共通点は、大陸への渡航口であるという点。このことから、はなから思いを馳せていた地があったともとれる。1年ほど、小樽など道内を転々とし、結局、故郷に戻るのであった。

⑤1925年      14歳 再び家出 祖父の住む中国東北部(旧満洲へ)

家出には、2つの目的があった、一つは、妹が里子に出されてしまないためにも、自分が家を出ようということ。もう一つは、実父の父親(父方の祖父)がいる満洲の地への憧れであった。


当時の大陸は、日本人の若者にとって、希望の新天地、夢の場所として、大々的に広報されていたこともある。

そして、この祖父との出会いから始まる巡り合いが、その後の生涯に大きな影響を及ぼすのであった。

3人の親交があった理由は、同郷(福岡県)ということがあったようだ。

宗重遠氏は、福岡県久留米藩士出身で、頭山・内田の両名も福岡藩士

ちなみに、中国の少林寺のイメージからよく誤解されるのだが、少林寺拳法の創始者 宗道臣の姓名の由来は、この父方の祖父であり、先を辿ると、対馬の惟宗氏なのである。


⑥1926年(昭和元年)15歳 母と下の妹の死別 

⑦1927年      16歳 上の妹、祖父の死 天涯孤独となる。

理男は、祖父の援助により、旧奉天中学4年を修了した2ヶ月後、母の郷里から電報が届いた。

医者にかからず病院へ行かず、おかげやバチを説く、間違った信心にすがった末、盲腸炎を拗らせ母は亡くなった。その4ヶ月後、下の妹が8歳でなくなり、その7ヶ月後には、上の妹も12歳で生涯を終えるのであった。そして、祖父もこの世をさり、このわずかの間に、最愛の家族を失ったのである。

※WIKIでは、祖父の宗重遠氏は、1930年没、50年史では、1927年没と3年のタイムラグがある。。。

母方の実家は、居心地の良い場所ではないとのちに述懐しているのだが、天涯孤独となった理男は、東京へ向い、知人である頭山満のもとで居候生活を始めたのであった。

ここでの生活は、諸説ある。柔道家を志したり、内田良平氏のカバン持ちをしたり、大本教の指導者 出口王仁三郎に会いにいったという話もある。


⑦1928年      17歳 再び、中国大陸へ。
                特務機関に従事することへ・・・

居候する頭山邸からの縁で、上記の人物との面識も得るなど、国家主義的な話に、多く耳を傾けた結果、「自分もじっとしていられない」と日本民族の捨て石になるべく志願し、昭和3年1月、再び満洲へ渡ることとなった。

満洲渡航前の行動と戦後に発される数々言葉からあなたは何を感じ取るだろうか。

🔻青春雄飛編へ続く(戻る)

●まとめ

少林寺拳法の創始者 宗道臣氏の創始以前の人生を振り返ることによって、少林寺拳法の原点である志が、少しでも明確化してくれれば幸いである。

最後に、宗道臣史をまとめあげるうえでの、最大の功労者のおひとりである鈴木先生のコラムを紹介したいと思う。

全25回のシリーズを読むことによって、宗道臣先生の人間としての細部について、さらに理解することができるだろう。

【参考文献】

少林寺拳法50年史 第一部 正史 (財団法人少林寺拳法連盟)1947

「強さ」とは何か。少林寺拳法創始者・宗道臣70の言葉 (文春新書)2012

少林寺拳法入門 (徳間書店)1977

少林寺拳法教範 1973 改訂新版


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