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映画雑誌・評論からみる『忠臣蔵』

 (この記事はプレ公開版です。歯抜けになっているところや誤字脱字などが多いかもしれません。悪しからず)

 毎年12月14日は「赤穂浪士討ち入りの日」として知られている…というか知られていたという表現が正しいかもしれません。本当は旧暦の12月14日なので、1月30日が本当の討ち入りの日らしいですが…
それはさておき、もはや「忠臣蔵」という題材を大衆演劇にしろ、映画にしろ、ドラマにしろ、そもそも見たことがあったり、赤穂事件そのものも知らないという人もいるでしょうし、日本の文化から少しづつ忘れ去られようとしているのは否定できない事のようにも感じられます。

 現にこの現代では『忠臣蔵』そのものの認知度や理解度というのは年々下がっていっていることは事実であると思われます。1999年7月6日付の「時事解説」では「『忠臣蔵』を知らない大学生たち」と題して『忠臣蔵』の認知度が下がっていることに対する嘆きが書かれています。

筆者は、ある大学でマスコミ概論を講じている。(中略)新聞の歴史を話しているうちに、怪訝そうな顔付きの学生に気が付いた。隣の学生に「『忠臣蔵』ってなに」と尋ねているようなのである。まさか!?『忠臣蔵』を知らない!?(中略)去年も同じことがあった。しかし、「知らない」の挙手者は二人ほどだったから、”講釈”はしなかった。しかし、この調子だと今年よりは来年、来年よりは再来年と、「忠臣蔵知らず」の学生の比率は高まっていくのではないか。(河村譲(1999)時事解説 P17)

 1999年当時の大学生といえば現在では40代そこらくらいであろうと思います。あくまでこの河村氏の所感によるものでしかないため、具体的な根拠やデータは欠けていますが、このくらいの世代において既に『忠臣蔵』という存在に対する認知度は大きく揺らぎを見せていたのではないかという事が少なからず読み取れるのではないかと思います。

 しかし、幸か不幸か最近でもごくまれにツイッターの一部の界隈で「忠臣蔵が廃れたのはなぜか」という議論が起こることがあります。多くは「忠誠心や仇討といった文化や価値観が合わなくなった」とか「史実が明らかになるにつれて浅野・吉良の関係性が『忠臣蔵』とは異なることが知れ渡ってきたから」という理由に帰結することが多いようです。

 こんなにTwitterで話題になったり、togetterにまとめられたりするという事は『忠臣蔵』もそこまでオワコンになっていないのかなあという推量もできますが、まあそれは一端、置いておくことにします。

 今回は映画やドラマの『忠臣蔵』が歩んできた歴史や基礎的な部分をおさらいし、特に『大忠臣蔵』など時代劇黄金期を中心とした雑誌記事や評論などでの取り上げられ方や興行収入などの面、キャストやスタッフなどの陣容など少し具体的なものを取り上げて「『忠臣蔵』の扱われ方」について確認し、少しでも忠臣蔵映画に対する理解を深める一助として、更に自分自身の理解度の確認としてもここに残していくことができればと思う所です。

 ただし、私が一応勉強してきたのは戦後の映画史なので戦前のものや日本映画黎明期における『忠臣蔵』、ドラマについては記述が少ないもしくは無い、省略または専門書の紹介にとどめたりするところがありますのでご了承ください。加えて、私は浅学非才、資料の数も不十分なところが多くあります。読者の皆様からのコメントや批判などご鞭撻を頂きたく思います。然るに皆様のリアクションによって、より映画史に関する議論や関心が発展することを希求するものであります。

1.『忠臣蔵』とはそもそも何か?

 まず概説として、『忠臣蔵』という存在が一体どういうものであるのかということを簡単に説明したいと思います。

 所謂『忠臣蔵』というものは江戸時代中期、具体的には元禄14年(1701年)に江戸城の松之大廊下と言われる場所において赤穂藩藩主・浅野内匠頭長矩高家旗本・吉良上野介義央を殺害せんとした殺害未遂事件、通称赤穂事件というものを演劇化した作品、およびその作品群やジャンルのことを指す言葉です。
 赤穂藩は現在の兵庫県赤穂市及び相生市周辺であり、当時から塩の産地として有名でありました。そこの藩主(石高は5万石ほど)という訳でありますから、浅野内匠頭はそこまで小大名という訳ではありません。一方の吉良上野介は、家格の高さなどから「高家」という地位についていました。高家というものは当時も官職などを司っていた公家衆に対応する役目や各大名旗本に礼儀作法を伝授するという役目を担う職のことです。
 徳川家5代将軍・徳川綱吉の時代、事件は天皇からの使者(勅使)を迎えるという重要な式典が行われている最中に起こりました。江戸城・松之大廊下にいた浅野内匠頭は突如、その場に居合わせた吉良上野介に切りかかり、殺害しようとします。その場にいた梶川与惣兵衛という人物に取り押さえられたため、未遂に終わりました。しかし、刀を抜くことが厳禁である江戸城内において斬りつけた事、大事な式典の最中であった事から浅野内匠頭は切腹、赤穂浅野家は断絶となりました。一方、吉良上野介は軽傷を負ったものの、命には別条在りませんでした。
 犯行に至った動機が不明なまま、事件は幕引きになってしまったため、具体的に何か恨みがあったとかということは不明なままです。しかし、幕府の関係者たちは何か怨恨があってのことと思い、吉良上野介に対して冷ややかな目で見ていたようです。そのせいか、吉良上野介は被害者であるにも関わらず、高家の職を引退しています。
 何はともあれ主君が切腹という目にあったため、赤穂藩の藩士たちは路頭に迷ってしまいました。速やかに新しい浅野家の当主を迎えて、ほとぼりが冷めた頃合いに浅野家を再興するという案もありましたが、喧嘩両成敗にならず、無念のうちに亡くなった主君の仇を討たんと大石内蔵助をはじめとする一部旧家臣は徒党を結成し、吉良上野介の屋敷を取り囲み、吉良上野介を殺害。その後、殺害を実行した徒党はことごとく切腹になり、残された吉良の長男も「仕形不届」として領地没収となりました。

 これが『忠臣蔵』の元となった赤穂事件についての概説です。私自身はあくまで「映画のお題目」としての『忠臣蔵』に関心を寄せているだけで史実にはあまり知識が無いので、もし間違っている部分やざっくりしすぎている部分がありましたらご指摘いただければ幸いです。
 『忠臣蔵』はこの事件の顛末を脚色し、演劇の題材としたもので、具体的には有名な近松座の『仮名手本忠臣蔵』や山村座『傾城阿佐間曽我』など浄瑠璃や歌舞伎の演目として扱われるようになります。
 日本史の教科書にも登場する近松座の『仮名手本忠臣蔵』は赤穂事件のプロットや登場人物などを鎌倉末期~南北朝時代を描いた『太平記』という作品にイメージを移して展開されます。(ex.浅野内匠頭=塩冶判官、吉良上野介=高師直etc....)
 『忠臣蔵』は人気の演目となり、客入りが少ない時期になっても安定した人気を博したことから「独参湯」、すなわち特効薬のようにたちまち劇場を救ってくれる鉄板の演目であると評されるようにまでなっていきます。

2.映画史における『忠臣蔵』のはじまり


 時代がずいぶん飛びますが、1900年代頃になっていよいよ日本にも映画という文化が導入され始めてきます。映画というものはそもそも1894年にフランスのリュミエール兄弟が発明した「シネマトグラフ」という装置に端を発しています。エジソンやルイ・プランスも映像を記録するという意味では同じ試みでしたが、「記録した映像をスクリーンに映し出す」という大発明はシネマトグラフが初めてのものだとされています。

(世界最初とされる記録映像 ルイ・ル・プランス「Une scène au jardin de Roundhay」ラウンドヘイの庭の場面)

それからわずか10年以内に日本に輸入され、産業としての歩みを刻み始めるというのはなんとも先進的な試みではないでしょうか。
 この先進的な装置を使った催しを当時は活動写真と呼び、音声を載せる技術が無かったためにサイレント(無音)で放映されていました。弁士と呼ばれる人の解説や講談調の話を聴きながら映像を見るのは今考えれば変な感じがしますが、当時はそれが最先端の娯楽として楽しまれていました。 とはいえ当時は劇場で行われていた演劇や歌舞伎などの様子を映像に収める形態のものや従来行われていた演劇を再収録したもの、ニュースなどが大半で、『忠臣蔵』という題材も映画黎明期のそのような背景もあって、映像という新しい舞台に乗り出していくことになります。
 この頃の所謂時代劇は「旧劇」(歌舞伎の呼称でもある)と現在では呼称されており、基本的には歌舞伎のスタイルをそのまま踏襲した技法や見せ方を続けていました。

(1899年に記録された最古と言われる日本映画『紅葉狩』)

 この「旧劇」から「新時代劇」への変貌を詳しく知りたい方は佐藤忠男氏や春日太一氏の書籍にあたるとより詳しい情報を得ることが出来ると思いますが、『清水の次郎長』(監督:野村芳亭 脚本:伊藤大輔)や『本能寺合戦』という作品から従来の「旧劇」から「新時代劇」という新たな名称を打ち出し、徐々に新しいカット割りや演出方法、その後女形を起用しなくなっていくことなどによっていよいよ「旧劇」というものが現在の「時代劇」という形に昇華されていきます。

 その中で『忠臣蔵』という存在は変わらずその「独参湯」としての地位を守り、当時の銀幕スターであった2代目尾上松之助や日本映画の父と言われる牧野省三なども忠臣蔵映画の作り手となっていました。その後も、伊藤大輔(「忠次旅日記」や「反逆児」、「徳川家康」など)や松田定次(牧野省三の実子、「鞍馬天狗」や「多羅尾伴内」、「旗本退屈男」など)、溝口健二(「西鶴一代女」、「雨月物語」、「山椒大夫」など)といった映画監督、戦後には深作欣二(「仁義なき戦い」、「バトル・ロワイアル」、「柳生一族の陰謀」など)や市川崑(「ビルマの竪琴」、「犬神家の一族」、「鍵」など)などの有名な監督までもが『忠臣蔵』の映画を手掛けています。俳優陣の面においても先述した尾上松之助を始め、大河内伝次郎河原崎長十郎松本幸四郎片岡千恵蔵長谷川一夫などの当時の銀幕スター・名俳優と言われる人物が大石内蔵助などの重要人物を競って演じています。

『忠臣蔵』映画最初期のブームは大正時代であったと言われています。明治維新後、政府は「富国強兵」や天皇の下に国民国家を築くという方針を採っていました。そのような潮流の中で『忠臣蔵』は今日抱かれているような「忠義に篤い武士」であったという評価・理論が一部で採用されていたことにその要因があるようです。
 確かに『仮名手本忠臣蔵』で悪役として描かれている高師直は当時、逆臣と言われていた足利尊氏に仕える武将であり、それを歯向かった塩冶などは英雄であるという評価の仕方は明治・大正期では変わった事象とも思えません。事実、赤穂義士を大楠公になぞらえ、英雄視していたということもあるようです。
 加えて、大正時代は明治末期に生まれた西洋文化や新技術が一斉に花開いた年代でもあります。映画という新たな娯楽がサイレントからトーキーへと移り変わり、映画の撮影方法そのものも大幅に変化したこの時代はまさに戦前においては映画の黄金期であると言っても過言ではないかもしれません。
 その後、昭和初期になると現代のように所謂「忠義の士」として国定教科書に掲載されたり、情報局国策映画として『忠臣蔵』が採用されていきます。ここでは『仮名手本忠臣蔵』のようなものではなく、こうした「忠義」という言葉やテーマをより強調させるためにエピソードの改変が行われていたようです。


3.戦後の映画「忠臣蔵」

 1945年に太平洋戦争が終結し、GHQによる占領製作が始まると、時代劇もその影響を受けることになりました。しばらくの間、殊更「忠義」を煽ったとして時代劇は規制され、時代劇冬の時代を迎えます。忠臣蔵も例に違わず、1950年代になるまでほぼ作られなくなっていました。
 しかし、占領政策も終わりを迎えつつある頃には日本の映画界は再び花開くことになります。1950年代は時代劇にとっても黄金期と言ってもよいほど数多く製作されました。今回主題に取り上げる『忠臣蔵』(1958)を始め、大衆が娯楽に飢えていた関係もあり、様々なスターが多額の制作費を掛けられた『忠臣蔵』という大きな舞台に登場しました。観客も一度に多くのスターを見ることができたため、違う制作会社によって作られた「忠臣蔵」をこぞって見ていました。
 キネマ旬報において「興行収入からみる忠臣蔵」と題して特集された記事によると、1950~1959年までの邦画興行収入ランキングでは「忠臣蔵」を題材とした作品が毎年のようにランクインし、その人気ぶりが伺い知れます。
 しかし、その後はみなさんが知るように「忠臣蔵」も時代劇もテレビに移行しつつ、現代劇などに圧されて衰退への道をたどることになります。
では、いよいよ本題に入ってその原因などを様々な資料から探ってみたいと思います。

4.昔からマンネリの「忠臣蔵」

 「忠臣蔵」といえば、今でこそマンネリの権化や話が変わらないといった指摘を受けていると思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、実はそこそこ昔から「忠臣蔵」はマンネリ状態で見るに堪えないと思っていた人もいたのです。

 今回はその一部を紹介したいと思います。1934年のキネマ旬報には米田喜一なる人物が『「忠臣蔵」の危機』と題して評論を寄せています。

これは僕一個人の独断的な考え方であるが、どうも僕は今まで現れた沢山な『忠臣蔵』の中で、これはと眼を瞠るような代物には一度も出遭わなかったように記憶している。(中略)全般的に『忠臣蔵』が常に常識的な範囲を一歩も出ず、持って生れた興行価値を誇る以外、何等作品として価値なきものであるという点に就いては充分一顧の要があると思う。(中略)根本的な原因のあることも否めない。それは過去の『忠臣蔵』製作者のすべてが踏んできた誤った道である。というのは『忠臣蔵』が余りに人口に膾炙した事実或は物語りである為に彼等は只管それを興行的にのみ利用して来た。不況切抜の切札とするか或はより高度の利潤獲得の動力とした―。つまりここに映画作品としての『忠臣蔵』の振るわない大きな理由があるのである。(米田(1934)キネマ旬報より)

 『忠臣蔵』が興行としては大いに稼いでいた時代から映画を”芸術”として見ている人たちからはその魅力があるのかどうかという点において既に疑義が生じていたのではないでしょうか?
 現代と異なり、忠臣蔵というものが大衆文化に深く浸透しきっており、あらゆる所でその講談や武勇伝を聞くことが多かったこの時代の人々にはある意味では「お約束」と呼ばれるもののド定番であったことと思います。映画という新しい娯楽においても、その革新性や目新しさが見えないこの題材は『キネマ旬報』のような映画を積極的に鑑賞する層からは既に見切りを付けられていたのかもしれません。

 しかし、大衆からはその「お約束」を受け入れ、映画スターを一度に見られるお得な題材として忠臣蔵を楽しんでいたのではないでしょうか?その証左が興行収入という形で表れていたのではないかというのは先述の通り。加えて、1958年のキネマ旬報ベスト・テンを見てみると、長谷川一夫主演の『忠臣蔵』がこの年の興行収入第一位(4億1355万円、時価換算では約20億円)であったのにも関わらず、選考過程で入った票はわずかに1票でした。
 この年の選考委員は荒正人(文芸評論家)、大浜英子(女性評論家)、坂西志保(評論家、アメリカに渡って日本文化の紹介なども行っていた)、鶴見俊輔(哲学者、ベ平連などでも有名)、安部公房(作家、「砂の女」や「箱男」等)武田泰淳(作家・「富士」等)や花田清輝(文芸評論家)などの有名な文壇・文芸評論家や瓜生忠夫、岡敏雄、大黒東洋士、清水俊二、淀川長治ら映画評論家であり、邦画・洋画の分け隔てなく選考するという方式でした。
 ちなみに、この年の第一位は木下恵介の『楢山節考』でした。『楢山節考』は深沢七郎の小説が原作になっており、小説ともども、この作品は日本映画の中では高評価を掻っ攫い、歌舞伎風の演出が特徴の名作として現代にも語り継がれています。
 どんな分野においても、評論家や一般のマニアなどが好むのは視覚的なもの、例えば演出などが優れた舞台や映画、アニメ、ドラマなど様々あるでしょう。その一方で、こうした人々が好むものとして「自分自身の考察や推理を楽しむことが出来るもの」という点も挙げられるのではないかと感じます。例えば、最近新作が公開延期となった「新世紀エヴァンゲリオン」はテレビ放映が1995年頃という早25年は過ぎようかという作品にも関わらず、今でも様々な考察や記事がプロアマ問わず行われている作品ではないでしょうか?
 そうした意味では、この「忠臣蔵」というストーリーは古今から語られつくした上に、異なる解釈などのものを「伝統」という免疫によって排除し続けてきてしまったという歴史があります。勿論、「サラリーマン忠臣蔵」などの翻案物はあるかとは思いますが、ストーリーの根幹から揺るがすような作品は少なくともこの1954年の『忠臣蔵』の時点、まして先述の評論が掲載された1934年当時にはなかったと思われます。(知っているという方がいればぜひ情報提供等戴ければ幸いです。)
 この年、よく売れた映画といえば長谷川一夫の「忠臣蔵」か「日蓮大上人と蒙古襲来」であるはずなのに、このような選考結果になったのは確かに選考委員の面々が所謂、進歩派などと言われるような人たちであるのも一因だと思われますが、忠臣蔵という題材を用いた映画作品はこうした"芸術的" な観点から論評・考察するような作品ではないと扱われていたと私自身は考えています。

5.評論から見る「忠臣蔵」

 前章では戦前と黄金期の1950年代における忠臣蔵の扱われ方を見ましたが、この章では「忠臣蔵」を主題に評論した書籍を具体的にかみ砕いて見ていきたいと思います。

a. 小松宰『忠臣蔵映画と日本人 <雪>と<桜>の美学』
 小松宰はそこまで著名な映画評論家ではありませんが、忠臣蔵映画や時代劇映画に関する評論や書籍をいくつか書いています。
 この書籍では『忠臣蔵』という作品が日本人にとってどのような影響を与え、日本社会においてどのような立ち位置にあったのかを評論しています。
 小松曰く、忠臣蔵というジャンルはその他の時代劇における伝統的なジャンル(次郎長や国定などの股旅ものや演劇から踏襲した心中もの)に比べて「時代劇の中の時代劇」、王座に据えるべきものであるとしています。当時はあらゆる映画製作会社が会社の総力を挙げて制作し、威信をかけてまで作られるものであり、”エンパワメントの誇示”という意味合いで重要であるとも述べています。
 確かに「忠臣蔵」は多くのキャストを配し、スタッフやセットの作りこみも他の映画とは大きく差をつけて豪勢なものとしています。映画産業というところで見ると変わったことかもしれませんが、国家というものに例えればさながら軍事パレードのようなものであり、「わが社はここまで金をかけて映画を作ることが出来るんだぞ」という会社イメージの宣伝にもなり得るという考え方は至極もっともであるといえると思います。
 続けて、「忠臣蔵」で表される”生死の美学”、これは日本人固有の精神であり、アイデンティティーが存在しているとしています。そうした美学は現代において表層的には忘れ去られてはいるものの、無意識のうちに人々を突き動かすものであることは間違いないとも述べています。
 現代の人々に忘れ去られている”アイデンティティー”というのは、そもそもアイデンティティーと言えるのか、『忠臣蔵』でなくともその議論は成り立つのではないかというところなど疑問は絶えませんが、おおむね<”生死の美学”というものが「忠臣蔵」には存在している>このことは『忠臣蔵』作品を観ていると共通して言えることなのではないかと思います。
 小松は「忠臣蔵が日本人に与えてきた影響」として、<勝てば官軍>と<滅びの美学>というものがあるとしています。加えて、忠臣蔵に限ったことではないですが、「太閤記」や新選組などをテーマにした作品ではサクセスストーリーからの凋落、栄枯盛衰というテーゼも見て取ることが出来ます。このテーゼそのものが日本人の精神構造を現し、すなわち高度経済成長期の成功体験という現代的な価値観とその反対の敗者を哀悼し、賛美するという精神傾向があるとしています。
 さらに、浅野と吉良の関係性は日本社会によくある「いじめ社会」の在り方を直喩したものであると小松は述べています。みなさんも学校や職場などの場面で大小さまざまないじめを経験したことがある人も少なくないのではないかと思います。つまり、浅野内匠頭の境遇はそうした人々の共感できるところであり、いじめの苦痛や屈辱を跳ね返したいという感情そのものが浅野と視聴者の間にある共通の事項であると評価しています。
 つまり、史実の赤穂事件とこれまで描かれてきた「忠臣蔵」という作品において「史実との整合性」が観衆にとって作品に対する評価のポイントではなく、理不尽な事や不合理だと感じる事柄(吉良)へ浅野/大石が私たちに代わって成敗するという対立構造とそのシステムに「忠臣蔵」の価値があるのではないかと考えることが出来るのではないでしょうか。

b.佐藤忠男「「忠臣蔵」はなぜ日本人にうけるのか」(「国文学 解釈と鑑賞」)
 こちらで紹介する記事は『国文学 解釈と鑑賞』というかつて発行されていた著名な学術雑誌に掲載されていたものです。佐藤忠男は戦後の日本映画史という分野においては第一人者であった映画評論家です。
 「忠臣蔵」に関しては朝日選書で『忠臣蔵 意地の系譜』という書籍が出ていますが、今回はこの記事において佐藤忠男がどのように「忠臣蔵」を評価しているかを見てみます。

 


【参考文献・資料等】
小松宰(2015)『忠臣蔵映画と日本人〈雪〉と〈桜〉の美学』、森話社、269頁
佐藤忠男(1995)『日本映画史1』、『日本映画史2』、『日本映画史3』岩波書店、430頁、376頁、315頁
谷川建司(2012)「『忠臣蔵』映画はなぜ昭和三十年代に黄金期を迎えたのか」、ミツヨ・ワダ・マルシアーノ編『「戦後」日本映画論』青弓社、336頁
谷川建司(2013)『戦後「忠臣蔵」映画の全貌』集英社、429頁
春日太一(2014)「なぜ時代劇は滅びるのか」新潮社、207頁
「ベスト・テンの選考を終えて」、『キネマ旬報』1959年2月上旬号、p32~33、キネマ旬報社
竹入栄三郎「興行から見た忠臣蔵映画」、『キネマ旬報』1994.10.25
米田喜一 「「忠臣蔵」の危機」、『キネマ旬報』
南部僑一郎「忠臣蔵撲滅論」、『キネマ旬報』
西脇英夫「特集 四十七人の刺客 インタビュー市川崑」、『キネマ旬報』
佐藤忠男「従来の「忠臣蔵」にはない新鮮さ」、『キネマ旬報』
森遊机「忠臣蔵とミッキーマウス」、『キネマ旬報』
相良竜介「拭いきれぬ滅私奉公の哲学=忠臣蔵」、『映画芸術』

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