教育的な価値vs思想

ぼくは情報収集にSNSは使わないのだが、好きな作家やYouTuberは少数ながらいて、彼らのアウトプットは積極的にチェックしている。具体的には、Amazonで著者をフォローしたり、YouTubeでチャンネル登録している。

一方で、一般に広まっている知識や情報の収集をするために、特定の個人やブランドをフォローすることはまったくない。なぜそんなふうになっているのか、考えてみる。


教育的な価値と思想

話を単純にするために、コンテンツを2つに分類する。

  • 教育的な価値を持つコンテンツ

  • 独自の視点や意見(思想)を提供するコンテンツ

マーケティングやブランディングを目的とした場合、どちらにも長所と短所がある。ぼくがフォローをするのは、新しい価値を提案してくれる企業や個人だが、もちろん好みの問題であって良い悪いはない。

教育的な価値のアウトプットはリスクがない

教育的な価値とは、具体的には、サバイバルで役立つ紐の結び方とか、「オブジェクト指向とは」のような専門用語の説明などである。こういった情報の価値は一般的で、受け手による好き嫌いもない。

こういったコンテンツは幅広い人に訴求する。誰にとっても一定の価値があるので、発信すればするほど確実に検索順位も上がる。そうでなくても、その分野の権威あるソースとしての地位を確立できるので、ブランディングにつながる。努力の量に応じた成果が必ず得られる。

発信するのは個人的な意見ではなく、事実である。そのため、適切な場で正しい情報を発信している限りは炎上のリスクもない。嫌われることもない。自分の存在や価値を広く認識してもらいたい場合には、堅実なアプローチといえる。

独自の視点や意見を発信するのはハイリスク

一方で、独自の視点や意見を発信するコンテンツもある。「私(あるいは私たち)」の立場を明確にするということは、自分と違う立場のオーディエンスを失ったり、敵対するリスクを負うことでもある。炎上するのも、基本的にこのようなコンテンツである。

日本の伝統的な企業文化では、特にこのようなコンテンツの発信が消極的だと思う。物議を醸すような強い意見を公に表明しない。企業の公式なコミュニケーションは、広報やマーケティング部門を通じて慎重に行われることが多く、経営層が個人的な意見を述べることはあまりない。

情報収集の目的でフォローをしない理由

ぼくは、情報収集の目的で企業や個人をフォローしたことがほぼない。定期的にニュースを発信しているアカウントなどはフォローした時期があるが、それだけが例外である。

理由は簡単で、知りたいことは都度検索したほうが効率が良いからだ。こういう一般的な価値を持つ情報は、似たような記事がたくさんあって、検索すればGoogleがおすすめ順に並べてくれる。あえて特定のソースに制限して情報収集する必要がない場合が多い。

ソースの信頼性は意識している

少し話が逸れるが、ものすごく専門的なトピックや嘘の情報が多い分野では、特定のソースから情報を探すこともある。それを思い出したので付記しておく。

ぼくは以前、医療現場で働いていたが、たとえば薬に関する情報を知りたいときは必ず添付文書という公式のソースを参照していた。この添付文書に書かれた内容は、法律に基づき製造業者が作成したものである。なぜ添付文書から情報を得る必要があるのかというと、ネットで誰が書いたのかわからない情報では、医学的な助言の根拠にはできないからである。「どうしてこんな処方をしたのか」と問われたときに、「Wikipediaに書いてあったから…」では言い訳にならないが、「添付文書に書いてあるから」ならば製造業者の責任にできる。

このように、調べた情報を誰かに伝える必要があるときや、試験で回答するときに使う場合は、ソースの信頼性を意識している。個人的に信頼しているだけではダメで、世間一般に権威がある情報源が必要になることも多い。

教育的な価値の提供はファン獲得につながるのか

教育的な価値の提供でフォロワーを増やすことの是非に話を戻す。

教育的な価値を持ったコンテンツの発信は、たしかに努力に応じた成果が得られやすい。投稿数に応じて非線形に閲覧数や視聴数が増えていく。一見すると、順調に進捗しているように見える。しかし、量だけでなく質も同時に評価しなければならない。たとえば、そのフォロワーの何割が商品を買ってくれるのか。

コンテンツが一般的すぎると、他の多くの企業や個人も類似のコンテンツを発信している、という問題がある。そして、もちろん受け手は、誰が情報を発信しているかなどに関心はない。これまではフォローしてくれていても、「今月から有料になります」と言ったら簡単に離れていく人たちである。

フォロワーを増やすことが目的ならば、一般的なコンテンツの発信だけで何も問題はない。しかし、最終的に売り上げやブランド価値の向上に貢献してくれるファンを育てたいのなら、これだけでは難しい。

情報提供はターゲットが限定的すぎる

ぼくが情報収集の目的でフォローをしない理由はもうひとつある。教育的な価値のコンテンツはターゲットが限定的すぎるので、同一の発信者であっても、自分に刺さるものと刺さらないものがあるのだ。たとえば、ネクタイの結び方は知りたいが、ネクタイの歴史にはまったく興味がなかったりする。

ぼくとしては、自分の疑問や問題を解消できればそれで良い。相手がこれからどんな発信をしていく予定なのかは興味がない。今後、いつどんな疑問や問題が生じるのか、自分自身ですらわからないのに、他人がそのニーズを満たしてくれるはずがない。ニュースのように、特定のトピックを網羅的に把握したい、といったニーズがある場合は別である。

つまり、お役立ち系の情報を発信するアカウントをフォローしても、投稿をチェックするコスト以上の価値が安定的に得られる確率が低い。費用対効果が悪いのである。

深い関係を築くために思想を表明する

ここからは、思想をアウトプットすることの利点について書く。

独自の洞察や意見を述べることはハイリスクである。最初は一定の割合でオーディエンスを失うことを覚悟しなければならないが、その代わりに一部のフォロワーと深い関係を築く機会を得られる。

自分の思想を語り出すと、最初は閲覧数や視聴数が激減する。これは昔、ぼくも真面目にSEOに取り組んでいるときに経験した。フォロワーとの関係性を量だけで判断している人にしてみれば、なぜこんなリスクを冒すのか、理由がわからないだろう。だから、その先の動員数や口コミ数などを成果指標として置く必要がある。フォロワー数を唯一の目標にしていたら、心が折れてしまうだろう。

情報提供は思想を聞いてもらうための餌

教育的な価値の提供は、自分の思想を聞いてもらう機会を得るための餌のようなもの、と考えるのが良いと思う。餌を与え続けるだけでは、いつまでも関係は進展しない。口コミを書いて欲しくても、「書いてくれたら餌をサービスしますから」と頼まないと書いてもらえない希薄な関係である。

自分の洞察や意見を述べることはハイリスクと書いたが、深い関係を築きたいのなら、結局はそのリスクを取るしか道はない。砂金を探すために砂をふるいにかけるようなものだ。ふるいがけによってたしかに量は減るが、それをしないことには砂金は取り出せない。だから、ふるいがけは実はリスクではない。砂を全部砂金だと勘違いしていたのだとしたら、その最初の認識に誤りがあっただけなのだ。

思想はテーマに関係なくニーズを満たす

「この人の意見が聞きたい」というニーズは強力である。なにしろ、テーマが何であろうと関係ないのだ。今後、どんな投稿がされるのかは未定であるが、どんなコンテンツであっても自分は楽しめるだろう、と期待している。ぼくがアカウントをフォローするのは、そういうときである。

他の人がどういうときに他人をフォローをするのかは知らないが、たぶん、ぼくのような人は少数派だと思う。具体的なトピックではなく、その人の視点に興味があるという人は、残念ながらあまり出会わない。

まとめ

「教育的な価値vs思想」というタイトルで書いたが、実際にはどちらか一方を選ぶのではなく、両方組み合わせるのが良いだろう。一般的な価値のあるコンテンツで人を集めて、独自の視点や意見で関係性を深める。

フォロワーは多いのに、当たり障りのない発言しかしない人も多い。逆に、自分の思想ばかり発信しているような人はいないのか、というと、ぼくのブログがまさにそれである。こういう発信をする人も一定数いるが、注目はされない。注目して欲しいのであれば、やはり知識や情報を持っていることを示して、信頼性や権威を築く過程も必要ということ。

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