言語化の意義と多面性について,多くの人間が考え直す時代が来るのかもしれない.
宇野常寛さんの新刊「庭の話」を読んでいて,まだ1章も読み終わっていないが,言語化の意味がどこにあるのかを少し考えさせられた.
もちろんここ最近の文脈で,AI時代に必要とされる言語化能力とか,あるいは仕事の精神的負担を減らすための言語化能力とか,そういうのはあるだろう.結局のところ,人間のコンピュータ親和性をどれだけ高めても,その境界に自然言語はいつも存在するはずだ.もちろんコミュニケーション手段は増えると思うけれども,有機構成のレベルはしばらく変わらないだろうから,そう簡単にはその状況も変わらないと思う.
さて,一方で「言語化能力が高い」と言われる多くの場合は,おそらく「無意識に思っていた感情がちゃんと目の前に外在化されていて,しかも問題の本質を本能と自然法則の複合的関係性において検討し,解決のための適切なパラメータを設定している.」といった事だと思う.「庭の話」を読んでいても,その能力が高いなぁと思う.
そのようにだけ考えれば,その能力があれば済むかと言われれば,必ずしも違うということが重要なのではないかと思った.もしその能力を持っていたとしても,意識的に言語化できることというのは限られているのだ.それは,自分が普段どんな本能を活性化するのかにもよるし,あるいはどういう人と話すのかにもよるだろうが,いずれにしても,「多くの人間が感じていながら,それでいて多くの人間が意識的に言語化しないもの」はおそらくそこそこあるし,それに対する納得のいく言語化と適切な問題設定のインパクトはそこそこ大きいのだ.
「庭の話」の場合には,普段意識しない文脈であればあるほど読んでいる時のインパクトが生まれそうな感覚がある.もちろん最低限の情報は必要だろうが,そもそも多くの人間が知っていることを扱う部分も多い.そして,問題設定自体に納得と驚きが同時に含まれるというところが,インパクトが大きい一つの要因だろう.
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