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無職の日記2 辞世のジョーク

ユーモアが好きだ。
もし5分後に死ぬとしても、冗談を言っていたいと思う。
実際そんな状況になれば、我を失って慌てふためき喚き散らすのかもしれないが、今はそうありたいと思うのだから仕方がない。

人と関わるにしても、ユーモアのセンスが合わないと致命的に苦痛だし、逆に感覚が合えば急速に親密さを覚える。

物心ついた頃からネガティブで、物事を悪い方にばかり想像していた私が、いつからユーモアに固執し始めたのか定かではない。
そもそもユーモアとは何なのか。Wikipediaを見てみることにする。

ユーモア

おかしみでありつつ、根底には人間への愛情があるのだそうだ。
わかるような、わからないような。

聞き手と話し手の共通認識を土台とした上で、聞き手やテーマに対する優しさを持っておかしみを表すものなのだろう、ということはわかった。
これの何が私にとって重要なのだろうか。

冒頭に挙げた、死ぬ5分前のパターンでは誰かに対してユーモアを感じさせることを想像していなかった。
その状況を笑い飛ばすような独り言を想定していたように思う。

この場合の聞き手は私で、話し手も私自身。共通認識を持っていることは自明であるが、難しいのはその共通認識に対する意外性を自身に示すことができるかどうかだ。

実際にどんなことを言ったら良いか考えてみよう。死ぬ前の自分に向けた最高のジョークを発明するのだ。

ふと、
「あ、5分後に死ぬなこれ」
と悟った私は、
「明日の晩飯にはつけ麺が食べたいな」
などと言ってみる。

これはまあ、大して面白くはないが成り立ってはいる。
「明日の夜は来ないだろうよ」
というツッコミが発生し得るだろうし。

ただ、Wikipediaの定義にあった人間への愛情が不足しているように思える。食べたかったつけ麺を食えずに死ぬのは可哀想だ。

「あ、5分後に死ぬなこれ」
「昨日食ったカップラーメンが最後の晩餐とはね」

ううん。皮肉が強いかもしれない。もっと良い思い出で締めてほしい。
よくよく考えれば、ここから先に何の喜びも感じられないのは可哀想である。
愛情を持って接したい。

「あ、5分後に死ぬなこれ」
「5秒後でなくてよかった。一服できるな」

悪くない!悪くないよ!
5分あったら何ができるか考えるのはポジティブ!
でもなー。タバコ一本だけかぁ。
もうちょいだなー?もうちょいないかなぁー?

「あ、5分後に死ぬなこれ」
「大丈夫だよ、きっと天国とかもっと良い状況への生まれ変わりが」

いやいやいや。そっち方面はいけない。
死生観に対する引き出しがなさすぎてブレ過ぎだし。
天国か輪廻かどっちかにしなさいよ。
両立してる宗派もあるかもねぇ!

しかしまあ、死などという重たいテーマを扱おうとすれば、自ずと人類の大きな発明である宗教に縋るのも然りと言えるのか。

これで良いのかもしれない。一人で大喜利大会でもしたら良いのだ。あとは最後にフルハウスのエンディングでも流してくれたら私は満足だ。

おや、そろそろ5分経った頃だろうか。

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