見出し画像

優しさまで資本主義かよ


優しい=無?

この画像をネットで見つけた時、うんざりした。
画像の詳細は知らないが、おそらく主人公がこのチエルさんに「自分の長所は優しいことだ」と言って、それを受けての台詞なのだと思う。
台詞の主旨として、何もないやつの自称優しいなんて「無」と同じくらい価値ないよ、ということなのだろう。

僕の経験上の話だが、賢くもなく強くもない人の優しさは本物のことが多かった。
逆に「自分は社会的に強い」とか思っている人の優しさは薄っぺらいことが多かった。

離婚をきっかけに以前働いていた金融機関を辞める時、副部長に言われた言葉を思い出す。
『離婚している人は世の中沢山いる。三組に一人は離婚している。そんな人達もみんな普通にがんばっているんだから、くよくよするな』
正論だ。反吐が出る。
世の中の会社の殆どは倒産するけれど、もしこの会社が倒産したら、お前は今俺に言ったことを自分に言えるんだろうな?泣き喚かないよな?
なんて言えるわけ無かった。愛想笑いして「ありがとうございます」と言った。金融機関だから倒産もほぼないだろう。残念だ。

強いとか賢いとか、きっとお金持ちとかかっこいいとかも入るのだろう。
そういったインスタ受け良さそうなものが長所で、「優しい」は無なのか?
確かに優しさをインスタやTwitterで表現するのは難しそうだ。偽善と叩かれるだろうから。
チエルさんの言う通り、「優しい」という言葉は難しい。
責任を取りたくないゆえの回避行動。副部長みたいな、正論の枠にはめて理解したフリ。
これを自称して優しいと言っているなら、嫌味の一つも言いたくなるのはわかる。
確かに人生を振り返ってみて、自称優しい人は回避行動をとるような人が多かった。
けれど、痛みを知っている人たちだった。痛みを知りすぎているが故の回避行動だったように思う。

最近のネットは人より抜きん出ることが至上なことが多い。
わかる、わかるよ。僕もnoteやっているからわかる。
イイネいっぱいくると嬉しいからわかる。
けど、現実世界でイイネしたくなる人は、noteで人生哲学やライフハックを書いている人じゃない。
朝の5時、近所の公園に行くと、必ずゴミ拾いをしている人たちがいる。
僕が知る限りいつもやっている。
何年も前、僕がずぶ濡れで信号待ちをしていたとき、自分の傘に入れてくれようとしたあのおばさん。
落としたキャッシュカードを交番に届けてくれた誰か。
苦しんでいた僕を助けてくれたのは、いつも優しい人達だった。
優しいは努力や才能じゃない。けど僕は優しいを馬鹿にできない。



追記
副部長のことを悪く書いたけれど、副部長に仕事を丁寧に教えてもらっていたことを思い出した。苦しくて早退したときも、「気にせず早く帰れ」と言ってくれた。
副部長の言葉を枠にはめて理解した気でいたのは俺だ。あの言葉は紋切り型ではあったが、俺を傷つけようとして言ったわけじゃない。
こんなnote、見てるわけないだろうけど、副部長、お世話になりました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?