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第三回 外国語学習

2021.6.7
第三回

 はい、現在午前3時を回ったところです。今日も「左手で文字を書くときに思うこと」について書きたいと思います。なぜこんな時間に書いているのかというと、12時過ぎに目が覚めて、いつもの朝のルーティンをこなした結果、まだ家を出るまでにかなりの時間があるからです。なので休日ではない今日、試しに書いてみます。

 左手で文字を書くことは、外国語を学ぶことに似ています。これは左手で文字を書いていくうちに感じたことです。利き手はいわゆる母国語に当たります。つまり、当たり前に、無意識に、なんの努力もせずに気付いたら出来ていたこととして捉えているものです。あまりにも自分の体に染みついているので、それが出来なかったときのことが思い出せないものです。いまこの文章を書いているときに使っている日本語も、もとは知らなかったもの。幼少期に少しずつ言葉を覚えて、字を覚えて、漢字を覚えて、人の文章を読んで、自分で文章を書いて、身に付けた言葉。いま、ほとんど苦労なく日本語を使っているけど、ここまで来るにはそれ相応の練習の積み重ねがありました。それを、左手で文字を書くと、理解するのです。

 左手で字を書くと、普段右手がいかにすごいことをやっているのかが分かる、ということは前回の文章で書きました。左手であまりにも書けないからです。力がペン先に上手く伝わらずに、思っていた方向と違う場所に向かっていくことがデフォルトです。つまり、左手が言うことを聞かないのです。暴れ馬です。曲線なんて尚更です。直線よりも曲線がより難しいです。なぜなら伝える力にグラデーションがあるからです。直線みたいに、とりあえず一定時間は同じ動きをしていればいい、ってことが無いからです。常に力のベクトルが変わっていく、これは難関です。そのことも左手で文字を書いて気づきました。

 そして、思うのです。右手、凄まじい、と。左手を書いてから右手で文字を書くと、あまりに楽に超絶技巧を繰り出すので口を開けるほかないです。完全に右手を意のままに操っているのです、自分が。そして、そこまでには相当な鍛錬を要したことが、容易に想像付くのです。だって、本来ペンで自由自在に文字を書くことは相当難しいことですから。それは左手で書いて分かっています。手首から先をコントロールして、細かい字の動きに沿って意のままに動かすことは超人が出来る業なのです。でも、右手は出来る。そして考える。これは、日本語と外国語の関係だと。

 左手にとって、文字を書くということは外国語習得みたいなものなのです。まったく慣れていない運動です。ふつう、人間は母国語でものを考えると思います、少なくとも僕はそうなのですが。そして、その言語で物を考えることができるということが、本当にその言語を習得した、ということになるのではないかと思っています。いま、左手はその過程にいるのです。右手の力を借りずに(どうやって借りるのかは分からないが)、左手だけで無理なく文字を書く。これが、左手が文字を書く行為を習得したことになると思うのですが、その行為と、外国語で物を考えることは体の、頭の動きとしてかなり似ているように感じます。どちらも、全く存在しない神経回路を、行為を繰り返していくことで少しずつ道を作って、街を作ろうとしている感じがします。

 うまく説明出来ませんが、僕は左手で文字を書きながら、同時に外国語習得のヒントも学んでいます。左手がどうやったら上手くなるのか、これは今のところ、とにかく書くだけだと思っています。ですが、ただずっと書いていてもだんだんと左手は疲れてきて、その行為は苦行になります。苦行になると効果は鈍ってくると感じます。なので、出来るだけ頭がフレッシュな刺激を感じている間に疲れるまで文字を書いて、一回のターンを終える。そして忘れた頃にまた文字を書く。同じように疲れるまでやる。この繰り返しが一番効果的なように感じています。

 これは、外国語学習においても生かしていて、日々のちょっとした隙間時間に、BBCのポッドキャストを聞いたり、洋書を読んだり、音読したりしています。これもなるべく脳がフレッシュにその行為を捉えられるように、飽きる前にやめて別のことをして、また忘れた頃にやる、ということを繰り返しています。

 実際にこのやり方で長期的な効果が出るかどうかは未知数ですが、これらの行為自体が楽しいので、結果的に、左手で文字を書き始めてから英語に触れる時間が長くなっています。それが既に一つの成果だと思います。今度は普段やっている語学学習についてもまとめてみたいなと思いました。ではまた、次回。

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