水あそび

僕と営田は電車に揺られていた。営田は医者で機転の効く男だ。ある時なんて、複雑骨折した患者に「通常の治療では半年はかかる」と言ったところ「一刻も早く歩けるようになりたい」と懇願され、その足を切り落とした。驚く患者に営田は明るい声で説明した。「これで一月後には歩けるようになります。義足付きで」と。営田は、常人には想像もできないことを思いつき、饒舌に話す奴なのだ。

そんな営田が、なぜか僕と二人だけのときは無口な男になる。昔はもっと話しをしていたように思うが、それだけ大人になったということなのだろうか。そんなことを考えていると電車は目的の駅に着いた。僕らは無駄に長い階段を上がり、改札を出た。営田は改札を出ると少し伸びをして口を開いた。

「久しぶりに来たなぁ、ここ」

営田は僕に話しかけているのかと思った。だが、僕はそもそもこの駅にきたことがあっただろうかと考えていた。それでなんとなく頷いて見せかけの相槌を打った。改札の外で僕らが佇んでいると尾井がやってきた。

尾井は缶コーヒーを営田に差し出した。

営田は「お前ほんとにそれ好きだな」と缶コーヒーを受け取り、「もっと気の利いたものないのかよ」と悪態をついた。

尾井は少し間を置いて答えた。「ごめん、次は淹れたての缶コーヒーにするよ」

僕は「シャレが効いているな」と営田に言ったが、営田は「へっ」と吐き捨てた。

尾井は背負っていたリュックを前に抱え直して「そうそう、言われたもの持ってきたよ」と、中からオレンジ色の薄い板状のものを取り出した。

「これすごいね。こんな薄いのにこの紐を引くと空気が充填されて救命道着になるなんて」

さらに尾井はプラスチック製の短い棒のようなものを取り出した。

「それにこの酸素ノズルもすごいね。本当に水中で呼吸できるよ」

尾井は、無表情な営田の顔色を伺いながら、さらに続けた。

「でもこれって海いく時のものだよね」

「海じゃなくても使える。川とか」

「そうか、そうだね」

尾井はまだ腑に落ちない顔をしていたが、営田が歩き始めたので僕らは山道へと歩みを進めた。皆、言葉を忘れかのように口を聞くことなく、それでいて入念にリハーサルを繰り返した劇団員のように休むべき場所で休み、歩くべき道を同じテンポで歩いた。山肌がオレンジ色に染まる頃、僕らは山小屋に着いた。飯盒炊飯で夕食の準備をし、火を囲んで座った。営田はリュックから酒を取り出し、尾井のグラスに注いだ。注がれた酒を尾井が一気に煽るのを見て、営田はそれまでとは少し違う調子で話し始めた。

「あの日のことだけどさ」

「あの日?」

「やつを始末した日だよ」

「あ、うん、誰にも話してないよ」

「いや、どう処分したのかなと思って。死体。お前が全部やってくれたから」

「ああ、全部バラバラにして海に流したよ」

「海に、か?」

「あの日は車で5号目まで来ていたから」

「そうか、悪かったな、いろいろやらせちまって。俺は気が動転していたから」

「大丈夫だよ。友達じゃないか。それにあいつは本当に嫌な奴だったから」

二人は誰のことを話しているのか僕にはわからなかった。「それは誰のこと?」と聞こうとしたその時、営田が「ああ、本当に嫌なやつだったな、椎名は」と言った。

椎名?椎名だと?僕はあやうく火中に倒れ込みそうになった。椎名とは僕のことじゃないか。泳いでいた目がようやく定まったとき尾井と目があった。尾井の顔からみるみる血の気が引いていった。尾井は立ち上がろうとしたが、体が動かず、へたりこみ、呂律も回らなくなっていた。尾井は声にならない声を上げながら僕を指さしていた。営田は、尾井ににじり寄り言った。

「もう回っちまったのか、酒? もっともちょっぴり薬も入っているけどな。さあこれから水あそびをしよう。あの救命胴着と酸素ノズルをやるよ。それで急流下りだ。でも、俺は止めたんだぜ」呻く尾井に営田は続けた。「手伝ってくれたことは感謝している。心からな。おかげで椎名の顔見なくて済んでいる。でもお前喋っちゃいそうでな。悪く思うなよ」

僕は何とか営田を止めようと思ったが、よく考えると腹が立ってきた。気持ちを抑えられず営田に向かって声を荒げた。

「顔を見なくて済んでいるだと? 頭おかしいだろ? あの日以来俺はずっとおまえのそばにいるじゃないか」

営田は僕の言葉には何の関心も示さなかった。震える尾井の指先を視線が辿るまでは。(了)

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