SAKURA
この季節になると思い出すことがある。
高校の卒業式、片思いの彼女と最後に交わした言葉。
周りの声にかき消されてよく聞こえなかった、君の言葉。
聞き返そうとしたけど、できなかった聞きたかった言葉。
もう10年も前のことだ。
母校では昨日が卒業式だったらしい。
昨日はさぞいろんな声に彩られていたのだろう。
色とりどりの声の花が咲き乱れる様が眼に浮かぶようだ。
今日は、何人かの生徒がグラウンドで何かをしている。
華のない実務的な声が聞こえるだけ。寂しくはないが、物足りなくはある。
僕は校庭の隅にある開校すぐに植えられた桜の木の下でぼんやり校舎を眺めている。
僕はもう何年も、この学校に来ている。
いつも見ている景色なのに懐かしい。
そんなことを考えていると、生徒たちがやってきた。
そして、桜の木の下で一人の少年が僕を受け取り、掲げた。
「これかぁ」
もう一人の少女が少年に掲げられた僕を下から見上げて言った。
「これが前のうちの学校の学ランのボタンだぁ。」
少年は僕を空に翳しながら少し眩しそうにしていた。
太陽に掲げられたそのとき、僕の記憶が鮮やかに蘇った。
彼女がボタンを掲げる姿。
僕の制服のボタンを、木漏れ日のキラキラとした光に向けて掲げる姿。
小さな光の粒が彼女にあたっては弾け、キラキラと吸い込まれそうになる幻想的な姿を、僕は思い出した。
「ヒカルちゃん、おはよう。なんか緊張するね。」
とびっきりの笑顔で話すカスミがいた。
「えっ、カスミでも緊張するんだ? よかったじゃん、緊張って言葉が辞書にあって」
「もぉ、卒業式までからかうことないでしょ? ほんと意地悪!」
僕は、卒業式の当日でさえカスミに余計なことばかり言っていた。
カスミの制服姿を見られるのも今日が最後だと思うと、ついジロジロと見てしまった。
でも、今日は僕にも決意があった。それは、カスミに告白すること。
小さい時からずっとそばにいて、中学は別の学校だったけど、高校でまた一緒になって、一緒にいるのが普通だったから気づかずにいた気持ちを。
卒業が近くなって、大学が別々になって、僕は一人暮らしをする。カスミとは別の場所で暮らす。カスミがそばにいない生活が待っている。
そう思うとなんだかモヤモヤして、僕の気持ちに気づいた。
「カスミが好き」
今日は、この気持ちを伝えたい。
カスミが何か話していたのだけれど、ほとんど耳に入ってこない。
カスミの言葉を遮って「あの、さ、カスミ今日終わったら……」
「カスミィ」
僕の言葉を遮って、リョウコがカスミに抱きついてきた。
カスミも「リョウコォ、とうとう今日が来ちゃったね。」
と答えて、二人で抱きつきながら教室に向かって歩き出している。
「あ、カスミ」と小声で言った僕を見て、リョウコがカスミに「いいの?」と言った。
カスミは僕をみて、「いいの、いいの。どうせ私が話してても上の空だったし。あとでねヒカルちゃん」と言い、そのままリョウコと歩いて行った。
僕は深くため息をつきながら、「あ、うん」とだけ言って手を振った。
その場から動くことなく、手だけを振っていた。
二人が見えなってもなお。
ありきたりの卒業式が始まった。
お決まりの校長の挨拶。
退屈極まりないとりとめのない来賓の挨拶。
そして卒業生への卒業証書の贈呈、着々と式典は進み、そして終わりを告げた。
カスミは僕に制服のボタンをくれとせがみ、僕はカスミにボタンの一つを渡した。だが、告白はできなかった。
どうしてだろう。僕は彼女に伝えたかったのに。
僕の気持ちを言葉にして。
でもできなかった。
そう思っているとき、カスミは僕をそっと見つめてくれた。そして優しい目で僕を見てくれた。「言葉はいらないよ。ヒカルちゃんの気持ちは分かっている。」そう言っているような眼差しだった。
そして、カスミは僕の制服のボタンを掲げて、木漏れ日を浴びていた。
僕はそんなカスミを見ることができただけで、救われた気がした。
彼女の眼差しは僕の人生全てを肯定しているようにさえ思えた。
僕は結局言えなかった。人生ってこんなものなのだろう。
やり残したことを後からから考えて、こうすればうまくいったはずだと思い、あの頃に戻ったらうまくやれる、そんなことをよく人は言う。
でもそんなことは幻想なのだ。
時間を巻き戻してもうまくはいかない。
未来に向かって過去の経験を生かしてこそ切り開けるなにかがあるのだろう。
カスミも桜の木へとやってきていたらしい。ボーっとして少年の掲げたボタンを見ていた。
「カスミ先生、またぁ、ボーっとしてる。」少女に少し笑いながら言われ、少年にも「彼のこと思い出してたんですか?」と言われている。
生徒に話しかけられてカスミは慌てて手をバタバタさせて声を上擦らせながら答えた。
「そうだね。この季節になると思い出しちゃって。桜の花びらが舞う頃になるとね。」
カスミは、ボタンを少年から受け取るとポケットのお守り袋にしまった。
「そのボタンの彼?」
「うん」
「でも、死んじゃったんでしょう?確か卒業式の日に。」
「知ってるの?」
「うちの学校じゃ有名だよ。病気で卒業式の日に亡くなった人がいるって。」
「カスミ先生の初恋の人だっって、みんな言ってるよ。」
「そうだね。この季節になるとね。卒業式を彼に見せてあげたくて、彼からもらった制服のボタンをね。」
カスミがさらに言葉を続けようとしたところで、少女が、
「あっ、先生、タッキ見てるよ。」と言い、職員室の窓を指差した。
少年も「タッキはカスミ先生のこと絶対好きだよ。かっこいいし、いいじゃん。ま、おれよりちょい落ちるけどさ。」
「こら、おせっかいおばさんみたいなこと言わないの」と言いながらカスミは職員室に向かって少しお辞儀をして、あの日のような笑顔で手を振った。
僕はカスミの言葉を聞いて、僕の記憶が僕だけのものだと知った。
僕もそろそろ前に進まなくては。
だって、桜だって、せっかく咲いた花びらを落として、新しい葉をつけてもうひと回り大きくなろうとするんだ。
何年たっても。
(了)
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