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立候補の決意~次期衆院選挙に向けて~

FBで投稿しました決意を、このnoteでもさせていただきます。

一人でも多くの人に読んでいただけたら幸いです。

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ここに至る思いを2日かけて書いたら6000字を超えてしまいました。A4で7枚。


自分自身の納得のためにどうしてもここまでの文字数が必要だったことをご容赦ください。


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ずっと逃げてきた何か

書き出そうとすると、とにかく、涙が流れている。
苦痛の涙なのか、喪失の涙なのか、歓喜の涙なのか、それとも絶望の涙なのか。
どれでも無いような気がするが、どれでもあるようにも思う。


よくわからないが、涙が溢れて止まらない。
わかっていることは「ずっと、逃げてきた」ということだ。


18歳まで、「サラリーマンの息子」だった。
19歳から、「政治家の息子」になった。


それはつまり、「荒井さとし衆議院議員の息子さん」この言葉がずっとついて回ってくる人生だった。20代前半の最初のうちは嬉しくもあったが、だんだん、だんだんと重荷になってきた。

「荒井さんの息子さんだから」という枕詞で、評価されているようだった。近寄ってくる人もいれば、遠ざかっていく人もいた。特に、人口190万人の札幌ではそれが顕著で、正直、苦しかった。


だから、という面はあったかもしれないが、大学は東京の大学しか受けなかった。しかも、父からは、合格したうちで「慶応の法学部政治学科が良い」と言われたが、入学したのは「早稲田の政治経済学部経済学科」だった。


就職も、いっさい父には相談せずに、勝手に決めリクルートに行った。1999年、まだ、10年前のリクルート事件の印象がある頃だった。
ベンチャー企業に転職するときも、ソフトバンクに転職するときも、自分で決めた。


「荒井さんの息子さん」から「荒井優」に脱皮したかった

32歳でソフトバンクの社長室で働いているときに、ようやく少し自信が出てきた。35歳で公益財団法人東日本大震災復興支援財団の専務理事として働く中で、自分自身で立っていることがわかった。

40歳の時、父から「新陽高校の校長になれないか」と相談をされた時は、悩んだが、潰れる瀬戸際の学校の責任を任されるに至ったのは「創立者荒井龍雄さんの息子さん」だった父ができなかったことを「荒井優」として引き受けることだとも受けとれた。


新陽高校の校長としての5年間は、自分でも予想外に楽しかった。新陽の生徒たちや仲間たちから学校教育の可能性を教えてもらった。


2年前に佐賀にある経営難にあえぐ名門校・東明館の経営を引き継げないかと相談されたときには、ひょっとしたら学校経営は天職なのではないかと思った。
いま、東明館の経営が順調に回り始めているのを感じて、日本で学校の再生をできる数少ない存在だということに自覚をもっている。


いろんな学校関係者から相談が来ている。もっとやりたい、もっと学校を救いたい、もっと教育をよくしたいという願いが自分の体から溢れているのを感じている。


「ゆたかさん」「新陽高校の荒井校長」「東明館の荒井理事長」の父親が誰かを知らない人が増えてきた。一方で、父が「荒井パパ」「ゆたかパパ」と呼ばれることが増えてきた。


28年かかって、ようやくここにきた。19歳の僕は、46歳になっていた。
そのタイミングで、父の引退があった。
これまでも、「選挙に出ないか」と声をかけられたことは10回くらいある。衆院選、参院選、知事選、市長選、それもいろんな政党から、いろんな場所で。


「荒井聡の長男」として政治を身近に見てきたので、政治家をやってみたい、という気持ちがこれまでなかったかと言えば、ゼロではない。


しかし、「荒井優」として、ソフトバンク社長室で働き、東日本大震災の復興支援活動をし、新陽高校の校長として東明館の理事長として学校運営をしてきた経験からは、政治家には、なりたくなかった。

特に、北海道3区から、父の所属政党から、その後任としては。


何から逃げてきたのか。
それは、人呼んで「世襲」と言う、「荒井さんの息子さん」として、この28年追いかけ続けてきたものなのかもしれない。


最初のうちは、鬼ごっこのように楽しく、次第にスポーツのように真剣に、このところはなにか怖いものであるかのように必死に逃げ回ってきた。逃げるうちにどんどん自分の行動範囲がひろがり、足が速くなり、見通しもたち、新しい世界が広がるようでもあった。


故・広田さんが教えてくれた、追いかけてくるものの正体


しかし、今年になって、一本の電話があった。故・広田聡さんの奥様からだった。
藤田さんの遺言書に、財産のすべてを新陽高校へ寄付することが書かれていた、とのこと。


広田さんは、父の高校の同級生で、父の選挙をいつも応援してくれていて、慈恵学園の常任理事を務めてくれていて、父曰く「実質の理事長」だった方。2年前に亡くなられた。


お元気な頃の広田さんに「自分の恩師とも言える方で藤田さんという方がいる。ゆたかくんの早稲田の大先輩にあたる方だから、一度、お昼ごはんを一緒に食べよう」と言われ、3人でお会いした。


藤田さんからは「自分はもう先も長くないが、身よりもない。資産がいくばくかあるが、その使いみちについて広田くんに相談したら、早稲田の後輩が校長で日本の学校教育改革をしている新陽高校に寄付してはどうか、と提案があったんだ」とおっしゃられる。


学生運動の闘士として活躍した藤田さんの学生時代について、大好きだとおっしゃる名店「棗」のお寿司を頬張りながら、昔を懐かしんで語られていた。


話を聞く一方で、わずかに話せる機会を見つけて、「お金があれば、こんなことに使ってみたい」と言ってみたら、「いや、そんなことよりも〜」と軽くいなされ、プレゼンとしては失敗したと思った。


そして、2年前に広田さんが亡くなられた。藤田さんの連絡先も存じ上げないので、確認のしようもなかったし、いつの間にかこの事自体も忘れていたのだが、その話だった。


電話口で、広田さんの奥さんの声が聞こえる「寄付されるのは、2億円を超える金額」と。


身体が雷に打たれたようだった。


電話を切った後、声を聴いた。
それは、ずっと「追いかけてくる」ものの声だった。


「ゆたかくん、覚えてるよな」
広田さんの声だったように思う。
広田さんが亡くなる半年前の2019年5月のことだ。


「佐賀の東明館学園の理事長にならないか」という相談を立命館学園から受けた。東明館の財務状況を見ると新陽を継承したときよりも厳しい。
赤字が激しく、このままではそう長くはもたない。
「それでもやってみたい」と思った。


一度だけ行ったことがあった。職員室の暗さに比し、生徒たちは明るかった。丘の上の校舎は風が気持ちよかった。いい学校だった。


「僕が受けなければあの学校はどうなるのか」と思った。

所在地は、ソフトバンク孫社長の出生地である佐賀県鳥栖市の隣町である基山町。ソフトバンクホークスの本拠地である博多からも電車で30分ほど。


佐賀県は、札幌の創設者島義勇、早稲田の創始者大隈重信を産み育てた地。リクルートの創設者江副さんも佐賀に住んでいたことがある。他人事では無いような気がしたし、克己心もあった。


「やってみたい」気持ちはどんどん強まり、札幌に戻り周囲に伝えていった。


「広田が大反対している」と父から電話があった。急ぎ、広田さんが入院されている北大病院に一人で向かう。


ガンで闘病生活が長くなった広田さんは、痩せた身体にパジャマを着て、ベッドに座って待っていてくださった。いつになく眼光が鋭く、怒っているのがわかった。


「ゆたかくん、荒井くんの跡はどうするんだ」
開口一番はっきりそう言われた。東明館の良し悪しではなかった。
一時間ほど二人きりで話をさせてもらった。最後は、東明館の財務諸表も見てくれて、元銀行マンとしてもいろいろとアドバイスもしてくれた。


あまり疲れさせてはいけないと思って、おいとましようとしたとき「ゆたかくんのフェイスブックをいつも見ているよ。生徒のことや学校のこと、本当にいつも元気をもらっているよ。ありがとう。」といつもの優しい眼差しで言ってくれた。


最後に握手した時にも再度「ゆたかくん、荒井くんの跡を頼んだよ」と言って力強く握ってくれた。
ギュッと握り返した。
少しひんやりとしてカサカサで細くなった手の感触が残った。

その時のことを「ゆたかくん、覚えているよな」というその声で思い出した。


生前の広田さんから最後に聴いた言葉、あれは、広田さんの願いだった。
近年、濃度をまして速さが増してきた「追いかけてくるもの」の正体は、「願い」だったのではないか


その時、逃げられないものだと悟った。


父の選挙を10回見てきた。
気がつけば、街中が自分の父親の顔写真で溢れている。

選挙と葬式はよく似ている。親しかった人たちが、顔写真の前で、その人がどれだけ素晴らしかったか、世話になったかを語りあう。懐かしい仲間と旧交を温めたり、知らなかった親戚と挨拶したり、職場の人達から知らなかった話を聞く。


集う目的は、顔写真の人があちらの世界でしっかりと頑張ってもらうことで、こちらの世界が幸せになるから。それが、みんなの願いなのだ。


もっとこちらの世界にいたかった。まだまだやってみたいことがあったように思う。


でも、もう逃げないですべてを受けとめる覚悟を決めた


日本の教育を変えたいという願いを集めて


昨日、2021年6月19日(土)10時から札幌のライフォートホテルで行われた立憲民主党北海道3区拡大常任幹事会で、今期で引退を表明している荒井聡衆議院議員の後任として選考委員会で選ばれた。


「日本の教育を変えたい」とマイクを握って話をさせてもらった。
話の要旨としては、
日本財団が2019年に行った9カ国の「18歳意識調査」では、


・自分を大人だと思う 日本3割、欧米8割、中国9割
・自分は責任ある社会の一員だと思う 日本4割、欧米5割、中国6割
・社会問題について家族や友人などと積極的に議論している 日本3割、欧米7割、中国8割


と、意識が一番低いのが常に日本の若者だ。


また、


国の将来は良くなる に「はい」と答えた日本の若者は9.6%で全9カ国中最下位。


唯一、9カ国中でトップになった回答は


・どのように国の役に立ちたいか
という問いに対して、「国の役に立ちたくない」14.2%

という状況だ。
これが大人が作り上げてきた日本の姿だ。


学校現場にいて、若者たちが未来を描けないのがよく分かる。彼ら彼女らが悪いのではない、われわれ大人がそういう社会を作ってきてしまったのだ。


学校を、教育を、変えることで、若者たちの未来を生き生きとしたものにしたい。

そのために、衆議院議員になりたい。


中国の秦の始皇帝とその仲間たちを描いた「キングダム」というベストセラー漫画がある。


その46巻で、後の始皇帝となる若き君主の側近が、牢獄に捕らえられている政敵の李斯に「法治国家」について教えを乞うシーンがある。

ここでは「法とは何か?」という問答があり、「刑をもって、人を律し、治めるもの」と答える側近に対し、後の世に法家として名高い李斯は「馬鹿な! 刑罰とは手段であって、法の正体ではない!」と喝破し、続けて言う。


「法とは願い。 国家がその国民に望む人間の在り方の理想を形にしたものだ!」


法とは願いなのだ。


6年前の総選挙で、父がギリギリに比例復活で当選が決まったときに、「その議員バッジは、みんなの力でつけてもらったものだ。

父さんには、経済政策とか外交とか大きなことではなく、もっと身近で困った人たちのためにそのバッジを使ってほしい。そのためにも月に1回、社会見学の時間を取ってほしい。」と話をした。


最初に行ったのは、友人の社会起業家である駒崎くんが都内で運営する当時日本で唯一の医療的ケア児専用の保育園「ヘレン」だった。


そこで、医療的ケアが必要な子どもたちと、その親の苦悩をまざまざと見た父が、全国に2万人いるという医療的ケア児とその保護者・関係者の「願い」を与野党の議員を巻き込んで6年掛けて形にし、1割も成立しないと言われる議員立法により、つい先日の参議院本会議で全会一致をみて、成立させた


まさに、「法とは願い。国家がその国民に望む人間の在り方の理想を形にしたもの」という姿を、父の衆議院議員としての最後の仕事に見た。


今、学校や教育に「変わってほしい」という「願い」があふれているのを知っている。生徒や先生たちが悪いのではない、学校という仕組み事態に課題が多くなってしまっている。


聞けば、あのフィンランドだって、1980年頃までは日本の学校と変わらなかったという。いや、世界中が、日本の学校と変わらなかったのだが、願いを持って、意志を持って変えてきたのだ。


「学校は変わる」と信じている。

特に私立学校は経営を少し見直せば、すぐに変わる。
公立学校はどうか。旧友の熊本市の遠藤教育長や、先輩の広島県の平川教育長などの活躍をみると、変わるポイントは同様にありそうだ。公立のほうが走り出せば一気に変わる。


現在、国会議員は700名ほどいるが、「校長」として学校改革を実現してきた国会議員は、一人もいない


衆議院議員となって、子どもたちを最優先に、現場と保護者と地域のことを考えた「学校」「教育」を実現していくことで、「自ら考え、判断を下し、行動を起こせる、自律した若者」を育てたいと強く願って、覚悟を決めた。


「教育、教育、教育!」こそが、新しい日本のビジョンだ。


キングダムの著者原泰久さんは東明館高校の卒業生で、何度かご一緒させてもらっている。先日お会いしたときに色紙を書いてくれることになった。
「好きなキャラクターを言ってくれれば書きますよ」と原さんが聞いてくれたので、「原さんに、おまかせします」と委ねたら、ちょっと考えてサラサラと書き出したのは「天下の大将軍 王騎」だった。


王騎は物語の前半に大きな存在感を示し、亡くなる直前に主人公の信に自身の大きな矛を授ける。


46歳で国会議員になるのは、期数が物を言う政治の世界では、正直いって、すでに遅い。だからこそ「教育改革」これを全身全霊で実現して、次の世代の主人公である若者たちに、大きな矛を渡せる存在でありたい。


長い長い文章になってしまった。ここまで書くのに2日かかった。
いつの間にか涙は止まった。
今は、なんだかワクワクしている。


応援してくださる皆さんへ


最後になりますが、

私の顔や名前や政策は、まだまだ札幌の皆さんに十分知られておらず、知名度もありません。まずはこれから、地に足を付けて政治活動、地盤情勢活動などを地道に愚直に始めていきたいと思います。


正式に後援会を設立し、私の政策をまとめたリーフレット等が完成しましたら、改めてご案内させていただきます。


ここでつながっている皆さんの身近にも、札幌在住や札幌出身のご家族やお友達などがいらっしゃると思います。


ぜひ、そうした方々に、一言、facebook・instagramのメッセージやLINEなどで、

友人の荒井優(ゆたか)君(46歳)が立憲民主党北海道3区から擁立されることが決まったよ」

「学校の校長や理事長などを歴任した経験を生かして、『学校改革』『教育改革』の実現を目指している

「政策リーフレットを添付するから是非一度読んでやって」

などと知らせてくれたら嬉しいです。


グループやメッセージやzoomなどで紹介して頂ければ、ぜひ挨拶させていただきたいと思います。


今までは、願いから逃げることで「荒井優」として成長を遂げてきました。
これからは、願いを受けとめることで「荒井ゆたか」として進化していきます。


まずはこれから、政治活動や後援会活動、地盤情勢活動などを通じて、皆さんの声や願いを受け止める中で、誰よりも学んでいきたいと思います。


どうぞこれからよろしくおねがいします。


(なお、慈恵学園の副理事長、東明館の理事長、今治明徳の理事としては変わらず学校運営をやらせてもらいます。
その他の公職などは進退伺をそれぞれの組織に行っています。)

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