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「87歳 要介護2」の母。私ができること(戦争体験投稿叶う)

もはや昔の母ではなくなっている。

しっかり者だったのに近頃は物忘れがくひどく、耳も遠くなりました。
今年の春に要介護2の判定をもらいました。

でも口は達者で時々ちょこっと憎まれ口を言う。
それで、こちらもついガミガミ言いたくなる。

そんな時は読み人知らずの手紙《親愛なる子供たちへ》を読みかえす。

「手紙 -親愛なる子どもたちへ-」 年老いた親から自分の子どもへ 
年老いた私が、ある日 今までの私と違っていたとしても
どうかそのままの私のことを理解して欲しい
私が服の上に食べ物をこぼしても、靴ひもを結び忘れても
あなたに色んなことを教えたように、見守って欲しい

あなたと話す時 同じ話を何度も何度も繰り返しても
その結末をどうかさえぎらずに、うなずいて欲しい
あなたにせがまれて、繰り返し読んだ絵本のあたたかな結末は、
いつも同じでも、私の心を平和にしてくれた        
悲しい事ではないんだ・・・ 

消え去ってゆくように見える私の心へと 励ましのまなざしを向けて欲しい
楽しいひと時に 私が思わず下着を濡(ぬ)らしてしまったり
お風呂に入るのをいやがるときには思い出して欲しい
あなたを追い回し 何度も着替えさせたり 様々な理由をつけて
いやがるあなたとお風呂に入った 懐かしい日のことを
悲しい事ではないんだ・・・ 

旅立ちの前の準備をしている私に 祝福の祈りを捧(ささ)げて欲しい
いずれ歯も弱り 飲み込む事さえ出来なくなるかも知れない
足も衰えて、立ち上がる事すら出来なくなったなら
あなたが、か弱い足で立ち上がろうと私に助けを求めたように
よろめく私に、どうかあなたの手を握らせて欲しい

私の姿を見て、悲しんだり 自分が無力だと思わないで欲しい
あなたを抱きしめる力がないのを知るのはつらい事だけど
私を理解して 支えてくれる心だけを持っていて欲しい

きっとそれだけで、それだけで私には勇気がわいてくるのです
あなたの人生の始まりに、私がしっかりと付き添ったように
私の人生の終わりに、少しだけ付き添って欲しい
あなたが生まれてくれたことで、私が受けた多くの喜びと
あなたに対する変わらぬ愛を持って、笑顔で答えたい
私の子どもたちへ 愛する子どもたちへ  ありがとう

(歌詞はポルトガル語、作者不詳(読み人知らず)


これを読むと育ててもらったくせに、認知症の母に文句ばかり言っている自分がすごく悪い奴に思えてきます。

反省して「よし、あしたからもっと優しくしよう」と決意するのですが少し時間がたち、母が可愛くないコトを言うと、倍にして言い返してしまう。

後から自分を責めたり「親への愛情は持っているから、これでいいよね。親子だし。」と自分を正当化したりする。

優しくしたり怒ったりしながら終わりに向かって時が過ぎています。

自分の老いて行く姿を見せて「親としての最後の役目」を果たしているのだろう。

私はお金もないし十分な親孝行はしてあげられていない。
それに、昔から『子供に迷惑をかけたくない』と言い、何をもらっても喜ばないし必ずお返しをしようとする。


でも、子供からしたら素直に受け入れて喜んでほしいとずっと思ってきました。

残された時間はもうあまりないんです。そこで、何かできることはないか?と考えました。

そういえば母は自分のことをいつも卑下していて『もっと勉強しておけばよかった。』とよく言っていた。

その理由は、親兄弟が教師(寺院)ばかりで、自分が中学しか出ていないことや、家族に進学をかなり勧められたのに、勉強嫌いで言うことをきかなかったらしく、その事を今でも後悔しているみたいだった。

加えて今お金の管理や、草むしり、洗濯掃除、料理、何も出来なくなった自分を情けなく思っていた。

私は何度も母の良いところを伝えましが劣等感を払拭することはできませんでした。

少しでも母の自尊心をあげることはできないか。「そうだ!新聞の読者欄に投稿したらどうか」と思いついた。

理由は何かひとつでも称賛を浴びる体験をしてほしかったからです。

とは言え、果たして要介護2の母にそれができるのか?
いやいや、今でも「戦争体験」のことはよく話しているし、昔から手紙の文章はうまかった。とりあえずやってみよう。

「結晶知能」に賭けよう!!

はじめは新聞投稿を嫌がっていましたが「お母さんには戦争を知らない世代の人に、その辛い体験を伝える使命がある! やってみようよ。」と繰り返し伝えました。
すると、『やってみようかな』と言い出した。

文章の書きはじめは断片的な情景だったが「その時の気持ちはどうだった?」と質問を繰り返すと、かなりリアルなものになった。

しかも、その文面には戦争当時の季節感や、色や、匂いがした。厳しい戦時下の生活でも小さな幸せを見つけて暮らしている様子がよく分かった。そんな時代を生きてきた、母をあらためて尊敬した。

完成した文を母が音読してWordに音声入力。(この文明の利器には気づいてないようでした) 

少しだけ手直しして新聞社の受付フォームに投稿完了。文字にして400文字。

それから一ヶ月『新聞に載らんねー。やっぱり私はダメやね…。』とまた負の言葉をウダウダいうので逆効果だったかなと思っていたら、その数日後なんとか読者投稿欄に掲載されたのです。

『戦争とおはぎの記憶』

私の生家は寺院で、国民学校一年生の昭和16年に太平洋戦争が始まりました。母も寺の出身で、結婚したばかりの23歳の弟がおり、私の生家に修行に来ていました。優しいその人を照兄ちゃんと呼び、慕っていました。ところが、照兄ちゃんに召集令状が届き出兵を余儀なくされました。戦争が激化した昭和19年、役場から「最後の面会かもしれない、家族は基地へ赴くように」とお達しがあり、小雪の舞う中私達家族は、好物のおはぎを重箱に詰め面会に行きました。とても喜んで美味しそうに食べてくれました。

しかし、終戦後、照兄ちゃんは帰らず、生還した戦友と交わした「生き残った方がお互いの家に伝えよう」という悲しい約束で戦死を知ることになりました。
冬枯れの景色と、おはぎの甘さが今でも辛く切ない記憶として残っています。母は泣き暮し、やがて老いて死んでいきました。人の運命を変える戦争を、伝えることが今の私の「使命」です。

2023年4月 西日本新聞掲載

『本当に嬉しい。書いてよかった。』と子供みたいに大喜びしていました。
珍しい、心底喜んでると思いました。

何歳になっても、物忘れがあっても、要介護でも《認められること》は喜びなんだ。そして可能性はゼロではないと感じました。
その後も新聞投稿を続け3つの作品が掲載されました。もちろん、とても喜んでくれました。

まだ恩返しは足りないけど、こうしてあーでもない、こーでもないと言いながら同じ時を過ごすことに意味があるのだろうと思う。






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