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フランス・ドゥ・ヴァール「動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか」

怒涛のように動物の賢さにまつわる事例が紹介されて、この量を受け止められるほど俺は賢くないっす...、と圧倒される本(笑)。

たとえば、直接手が届かない場所にバナナがあるとき、棒を使ってそのバナナを引き寄せられるか、という知能テストがある。テナガザルはこのテストに合格した。一方、ゾウは、このテストをクリアできないので、道具を使う知能がないと思われていた。

でも、それは実験のデザインが間違っていたのだと著者はいう。

ゾウが物をつかむ鼻は、霊長類の手とは違って嗅覚器官でもある。ゾウは鼻を使って食べ物を取るだけではなく、食べ物の匂いを嗅いだり、それに触れたりもするのだ。ゾウは無類の嗅覚を持っているので、取ろうとしている物が何なのか正確にわかる。だが棒を拾い上げれば、鼻孔はふさがれてしまう。たとえその棒を食べ物に近づけられたとしても、棒が邪魔をして食べ物の匂いを嗅ぐことができない。

道具は何も棒だけとは限らない。箱だとどうだろう。ゾウは箱を移動させて踏み台にし、高いところにあるバナナを取るのに成功した。

これは有名な事例っぽくて、「ゾウ 道具 鼻」でググるとナショナルジオグラフィックの記事が出てきた。著者に言わせれば、このタイトルは「アジアゾウ、道具の使い方をひらめく」ではなくて、「研究者、アジアゾウのひらめかせかたをひらめく」みたいな感じにすべきなんだろうか。

という具合で、この本は徹頭徹尾、実験のデザインを話の軸にして進んでいく。これで本が一冊書けるのは、科学とはやっぱり手続きなんだなあ、みたいな地味な感動がある。

そして、実験のデザインの問題を淡々と挙げていきつつ、そういう思い込みを引き起こす根源である人間至上主義みたいなものへの苛立ちが時折挟まれる。

たとえば、動物は文化を持つのか、という議論に関連して模倣の実験が行われたというエピソード。人間の子供は人間の模倣をしたが、類人猿は人間の模倣をしなかった、ということをもって「人間以外の種は模倣能力を持たない」と結論された。これに対して、著者はこう言う(この部分、この本で一番しびれた)。

それを知って一部の人々がほっとしたのは、私には不思議でならなかった。なぜならその結論は、動物の文化と人間の文化のどちらについても、根本的な疑問に一つとして答えていなかったからだ。その結論は砂地にすぐ消えてしまう線を一本引いただけに過ぎなかった。

類人猿の文化について知りたいのだから、類人猿同士で模倣が発生するかが重要なのに、なぜか「人間を模倣するか」という基準で実験をしてしまう。それは、「動物に文化などない」という結論ありきだからだ。

結論ありきな姿勢へのこの著者の反発は筋金入りで、「道徳性の起源」では、人間を特別視するキリスト教的な世界観だけでなく、ドーキンスたちネオ無神論者へも手厳しい批判が浴びせられている。グールドを(全肯定するわけではないとしつつ)べた褒めしていて、面白かった。

「道徳性の起源」と比べるとこっちの本はだいぶ抑えた調子で書かれていた。でも、次の本のテーマは「情動」らしいので、もうちょっとエモい感じになるのかな。


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