GotchのMoment Joonの紹介は何がまずかったのか、あるいはなぜおれはMoment Joonを聴くのか、についてのメモ

というツイートをしたものの、間違えている、と指摘だけしてその内容を書かないのはずるいなと思ったので、書き残しておく。人は間違える。おれがここに書くこともたぶんどこか間違えていて、その間違いっぷりを、誰のためでもなく書き残しておきたくて。


Moment JoonのLosing My Loveという曲にこういう歌詞がある。

本当にすごいと褒めつつ『モーメントは外だよ』と言った宇多丸さん

これは、宇多丸がラジオでMoment Joonを「外からの視点」と評したという事件を踏まえてのものらしい(補足:その後、宇多丸は「その「外」っていうのはどっちかって言うと「今までにないラップの視点」という意味で使った」と釈明している)。これがそのときのツイート。

Moment Joonは自分が「日本のラッパー」であると主張し続けてきた。「外からの視点」ではなく、ど真ん中なんだと。Gotchはそんな彼を「韓国のラッパー」であり、「外からの視点」だと呼んでしまった(あと、今回の論点ではないけど、「日本語が上手」というのもひどいと思った)。

とはいえ、おれもなぜ「日本のラッパー」にこんなにこだわるのかはじめはよくわかっていなかった。ツイッターでの発言とかインタビューを断片的に読むだけだと文脈がとれなくて、この寄稿を読んでようやくしっくりきた。

読んで、ようやくわかった。おれがMoment Joonを聴くのはたぶん、リアルだからだ。ここに「外」とか「内」があるとして、多くの人はそのどちらにも完全には属していない。個人は、世間が勝手に決めたいろんな「外」と「内」に引き裂かれ続けている。Moment Joonは、その嵐のど真ん中に立つ。不断に引き裂かれる、自分自身、でいることを引き受けながら言葉を発している。

そうやって世に出た私の音楽を愛してくれる方々の中に、またECDさんを愛している方々が多いのは、きっと偶然ではないと思います。スタイルも、ラップのやり方も、扱っているテーマや作法も全然違う私の音楽からECDさんの影響を見出す人々。私も彼みたいな「社会派ラッパー」、いや、「パヨク」だからでしょうか。

いや、それはきっと「今を生きる音楽」を作っているからだと思います。多くの人々からの共感を得るために抽象的でぼかした言葉を選ぶのではなく、極めて具体的で個人的な歌詞。体・考え・環境の変化を恐れずに素直に歌う勇気。時代の出来事と自分の関係を常に問いかけてその会話を止めない態度。過去のノスタルジアや栄光に頼ったり、皆が期待してなじんでいるものを繰り返すのではなく、常に「今」と会話をしながら生まれた音楽。

Moment Joonの音楽には力がある。それは、安全な場所から他人事のように「外」の包摂を訴える「社会派」とは別種のものだ。リアルな個人としての言葉。その危うさ。その重み。受け止めきれるかは分からないけれど、せめて聴いて、考えたい。自分にとってのリアルを。


(いちおう補足しておくと、この追記にはまあまあ納得できた)


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