「常識を逸脱」

「新潮45」の件については特にコメントするほどの当事者性を持ち合わせていないけど、9月21日の社長声明の

常識を逸脱

という言葉がどうしても納得できないのでこのもやもやを書き残しておきたい。世の中に物申すとかではなく、ただの公開の独り言として。

「常識を逸脱」していたからだめだった。と、声明はそう反省している。

常識。ほんとうに、そんなくだらないものに媚を売るために口を開くのか。いつか常識が真逆になれば、その同じ口で真逆のことを言うのか。

俺は怒っている。「常識を逸脱するな」というのはまさに、この騒動の発端にある人々が使った詭弁ではなかったか。LGBTは、あるいはそれに寛容な姿勢を取ることは「常識を逸脱」している、という攻撃ではなかったか。

ここに「常識」は濫用されている。鈍器として人を殴るために振り回されている。そんな場面に、「常識」の番人として登場するというのは、いったいどういう了見なのか。「俺の方がお前より常識的だ」という「常識」の覇権争いをしたいのならそういうマウンティングもいいだろう。でも、本当に取り戻したいのは「常識」なのだろうか。少なくとも、俺にとっては違う。

何かを語るということは基本的に、常識から仮に手を離してみる、ということだと思っている。結局はそこに行きつくのだとしても、「これはこう」という前提を一度忘れて、もう少しだけ手前から話してみる。あるいはまったく別のスタート地点から組み立て直してみる。

手を離すから、語ることは常識を危うくする。常識は塗り替えられるかもしれない。あるいは単にうまく元に戻らなくて崩壊するかもしれない。

それでも、手を離す。手を離してはまた掴むのだ。

問題だったのは、常識を逸脱したことそのものではなくて、逸脱の仕方だ。その不誠実さだ。その微妙だが重大な差異を履き違えてはいけない。

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