國分功一郎「中動態の世界 意志と責任の考古学」
映画「ハンナ・アーレント」が2013年に公開されて、しばらくは話題になっていたけど俺は観ていなくて、しかし、その盛り上がりにちくりと反応したこのツイートがなんとなく印象に残っている。
この一連のツイートは、当時『精神看護』に連載中の「中動態の世界」の宣伝だった。この本は、その連載が元になっている。
アレントは、アイヒマンに責任があってほしい。悪は罰せられなければならない。そこを動かせないものと据えた時に、責任とセットである意志は擁護される。しかし、ことはそう簡単ではない。
責任と意志の関係についての導入として、筆者は、居眠りをした学生が叱責される例を挙げる。テレビゲームでずるずると夜更かしをしてしまうような人は「意志が弱い」とみなされる。しかし、叱責される際にはその人は「自由に選択できる意志をもった能動的な人間」として扱われる。「意志が弱いから仕方ないね」とは言われない。筆者はこれを、
意志を有していたから責任を負わされるのではない。責任を負わせてよいと判断された瞬間に、意志の概念が突如出現する。
と説明する。このように、意志と責任の因果関係は自明ではないのだ。
にも関わらず、われわれは意志を問うことに慣れ過ぎている。文法レベルで慣れてしまっている。例えば、「I appear」と「I am shown」は、内容としては大差がないのに、並べたとたんに能動 vs 受動という対決の構図に飲まれてしまう。
もともと大差のない表現であるにもかかわらず、「その行為を誰に帰属させるべきか?」という問いが作用するや、両者は対立させられる。同じしぐさが、行為の帰属をめぐる尋問を受けると、自発的に姿を現したのか、何者かによって姿を現すことを強制されたのか、どちらかを選ばねばならなくなる。(中略)現在の言語は、「お前の意志は?」と尋問してくるのだ。それはいわば尋問する言語である。
しかし、かつてはそうではなかった。
とか書くと、「能動態にも受動態にも属さない中動態があった」というストーリーを予想するかもしれないが、それも違う。「受動 vs 能動」という二分自体がなかった時代がある、という話が、ギリシア語の昔の文法を巡って展開されていく。そうと言われなければ別の星の言語についての紹介紹介されているような気がしてきて、あれ、これSF小説だっけ?という錯覚にたまに陥る。
ちなみに、アレントについてはちょうど真ん中の章、5章で論じられる。アレントがどのように意志概念を擁護したのか、筆者をして、
実際には存在しないその何かをまるで存在しているかのように仕立て上げる巧妙な議論がここで組み立てられているのではないか――そんなふうにすら考えたくなってくる。
と言わしめる巧妙さがどのようなものだったか、ここでは触れない。うまく説明する自信がなくて。この本の議論は、一筋縄ではいかないアレントの議論を単に退けるのではなく、受け止めつつスリリングに加速していく。そして最後にまたアレントが登場する場面があって、冒頭のツイートでこの本の存在を知った身としては、なんとなく大団円な感じを勝手に読み取ってしまった。中身はあんまり理解できてないのに、ほっとしてしまった。
(見出し画像:https://flic.kr/p/odF2f8)
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