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心の贅沢

森茉莉さんの「貧乏サヴァラン」というエッセイにこんな文がある。


「罪悪感をもちながら贅沢をしても、それは贅沢ではない。身の丈に合わない浪費をすることが贅沢というのは勘違い。たとえば若い女性が豊かな心をもち、月給のなかで悠々と買える木綿の服を2〜3枚買って、清潔に洗い回すのはすてきな贅沢だ」

ついこの前、友人とお洒落な居酒屋に行ったときに、運ばれてくる料理すべてが美味しくて、「あぁ、贅沢してるなぁ。」と言うと「そんなに高いかな?」と友人が返してきて、なんだか私の貧乏性なところが露呈したようで少し居心地が悪かったのを思い出した。


身につけるもの一つ一つの値段が私とはかけ離れている友人にとっては、2、3000円の居酒屋でご飯を食べることはまったくもって贅沢の範囲には入らないんだと思う。


かくゆう私も、明日以降は夕食代を節約していこうと思うほど、贅沢したのだと感じてはいない。

あの場で私が贅沢だと漏らしたのは、予約席にあった手書きの私の名前のプレートと来店に感謝のメッセージが添えられたことや大好物のアツアツのだし巻き玉子を家ではしない大根おろしで食べられたこと、細かな配慮と笑顔が素敵な店員さんがいたあの雰囲気すべてが重なりあって、普段家で一人テレビを見ながら食べる私には、今は日常ではないなと感じたからだったのではないかと、振り返って思う。

人によって贅沢と感じる瞬間は違う。


森茉莉さんが言うように、普段よりもお金を使うことが必ずしも贅沢をしているということではない。

身の丈にあった選択肢の中で味わう心の贅沢は本当にその人にとっての贅沢であり、誰もそれを評価できるものではないのだなと。


これが、楽しかった思い出の中を掘り起こすと生まれでてきた、友人へのわだかまりを落ち着けたくて考えた結果の答えだった。

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