見出し画像

「ないものはない」は、全部創れる

これは先日の「大人のしまね留学」で、海士町の「ないものはない」ポスターについて話している時に、僕の目の前に座っていた方が仰った言葉。
僕はこの言葉を聞いたときに、それまでうまく言語化できていなかった部分がすっと腹落ちした。

振り返ると、これは僕の根幹に関わる部分ではないかと思う。
この事を、冲方丁さんの『天地明察』を例に書いてみます。

天地明察には「小説」「マンガ」「映画」の3つの媒体がある。
僕は「小説」→「映画」→「マンガ」と読み進めたのだけど、この進み方で本当に良かったな、と感じている。
僕の中での小説の楽しみはストーリーと同時に、「頭の中で登場人物を創作できること」にある。
すなわち登場人物の視覚的な情報が与えられていない分、「この人はこんな容姿で、こんな声」のようにイメージを膨らませることが小説の魅力だと感じている。

これが逆にマンガや映画から入ってしまうと、小説を読む前に余計な先入観を持ってしまう。
そして小説を読んだときに「自分の中のイメージではこんな容姿じゃない」「自分の中のイメージではあんな声じゃない」など、キャラ創作の部分を楽しめなくなる。
どんだけ評論家目線なんだ、とは自分でも思うけど…笑

これは遊びに対する考え方にも表れている。
子ども達が好きなものとしてよく聞くのが「ゲーム」や「YouTube」
ただ僕からすると、人から与えられた楽しさをただただ「消費」しているように感じてしまう。
もし「ゲーム」や「YouTube」で楽しみたいのであれば、楽しさを「創造」し、人を楽しませる側の人間になってほしい。
そしてそれが「遊ぶ」ということではないか、と感じる。

僕は東京で生まれ育ったけれど、大学では京都に行った。
それも今思うと、僕にとって東京は「何もかもがあり過ぎる場所」だったのかもしれない。

東京は確かに物質的には非常に豊か。
京都も十分物質的に豊かだけれど、やはり東京にだけあって、京都にはないものがある。
それは「自然が身近にあること」であったり、「徒歩圏内に寺社仏閣があること」。
そしてそれこそが僕にとっての豊かさだった。

ちょっと話がそれてしまったけれど、僕にとって「ないものはない」は大きな魅力で、それは「創作」できるから。
それはこれからも変わらないのだと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?