『Picnic』No.8を読む
いつもお世話になっている野間幸恵さんの『Picnic』のNo.8を読みました。ぼくも二十句で参加しておりますが今回はぼく以外の作者の句を抄出しました。
●岡村智昭「鰓工場、萌える」
唄い出す鰓に困っておりにけり
未認可の鰓を付けての世代論
●洛中や鰓売る声の近づいて
今回作者は「鰓」をテーマとした連作を作っている。進化生物学によれば人間にも鰓の痕跡が今も発現するそうでぼくらも決して鰓と無縁ではない。掲句、京都へ行くたび「京は魔都である」という言葉を噛み締めている。黄泉の口が開く夕暮れ、洛中という結界の中で人でない何者かがぼくらの過去をあばきにやってくるのだ。
●梶真久「暗いかな」
森を出る小さな雨を連れながら
塩飴を含む少女とすれ違う
●木の椅子の一つ燃やして秋の昼
家族はファミリーヒストリーの中で増減を繰り返す。作者は家族内になにかが出来した事を想起させる「木の椅子を燃やす」という行為を遂行する。まだ残暑厳しい秋昼、燃え上がる椅子は何を象徴しているのだろう。ぼくには強い「訣別」に見えて仕方がなかった。
●木村オサム「KIND OF GATE」
寒猿は通され人は残る門
寒紅で山門に書く「バカヤロー」
●裸木を二本立てたっきりの門
朝鮮に伝わる「チャングンピョ(将軍標)」を想起する。これは古く鬼神信仰の根付く彼の地での除魔のトーテムであり、日本国内では「地下大将軍」「地下女将軍」とされ焼肉店の入り口にも見ることができる。掲句はそのもっともプリミティブな形の魔除けを想起させる。この裸木は作者の排他的精神領域、パーソナルスペースを守るためのものだとおもったりする。
●榊陽子「淫紋に」
水じゃないことを相談されている
免疫見せて。糸電話から血出てる
●生まれも育ちもほったらかしである
ほったらかし。まあそうなんだよね。ぼくがそうだから、うんとしか言えない。毎回作者の句には驚かされる。発想を飛ばすための筋力がすこやかではなく、もっとこう、歪に備わっている感じ。しかしそこから生まれる句に嫌な匂いはしない。タイトルの「淫紋」にも驚いたなぁ。
●鈴木茂雄「by-end」
団栗のかたちが意味になつてゐる
ふりしきる雪がうしろを暗くする
●一本の丸木橋より冬に入る
なんという蕭々たる風景だろう。彼岸此岸の間を繋ぐように一本の丸木橋がここにある。足音。自らの息遣い。風の音、そして流れる水の音。そのすべてがこの一句に宿っている。抄出した三句ともに作者の達者な措辞が楽しめるが、殊に掲句は一幅の風景画となって眼裏に展開するのはさすがである。
●妹尾凛「知らない」
文様は満ち足りてゆく波頭
淡水に混じり合うよう足そろえ
●丸窓を重ね初冬のショパン
神田淡路町にひっそりとある喫茶店「ショパン」。店名のとおり一日中ショパンが掛かっている老舗だ。ぼくは年に数度ここに立ち寄りぼんやりする。ここのトイレの入り口には丸窓に嵌められたステンドグラスがある。ぼくは静かにそれを見上げるのがなんとなくすきだ。この店は初冬が似合う。もう春本番だけれど掲句を読んでまた行ってみたくなったのだ。
●月波与生「ブルーのシンフォニー」
片方は冠詞の取れたデスマスク
西暦でいえば印度は耳である
●パノラマ島からの長いモノローグ
いうまでもなく「パノラマ島」は江戸川乱歩の作品『パノラマ島奇譚』のオマージュだろう。作中ほぼ全編にわたる一人語りに厭世主義から理想郷を追い求めた主人公人見廣介の数奇な運命を描いている。その口調は冷静に、しかしどこか狂いの萌芽を感じさせるものだ。掲句にはその長々としたモノローグが視覚化されているようで面白い。
●中村美津江「ぽわーんと」
上海へきさらぎのいろはにほへと
ぽわーんとうゐのおくやまむらさきす
●秋でした由緒正しき甘納豆
抄出句全体にある口誦性と意外性に富んだ発想に坪内稔典氏のイズムを感じる。
三月の甘納豆のうふふふふ
十二月どうするどうする甘納豆
このほか氏の有名ないわゆる「甘納豆十二句」は稔典イズムの最たるもの。作者のふわりとした質感の句には強い稔典句へのオマージュがあるのだろう。
●松井康子「ぷるん」
空海の広さよ声の澄み渡り
ガムランの空なら父が昇るだろう
●カヌレこの昏さよ遠く鐘が鳴る
カヌレ・ボルドー(cannelé de Bordeaux)はいつから日本で売られているのだろう。ボルドーワインの澱を取るために大量の卵白を使い、その有り余る卵黄を使用した修道院名物の焼菓子カヌレ。見た目はそれこそかりんとうのように暗褐色をしている独自の質感に「この昏さよ」を当て一句に仕立てたのはさすがである。不思議とバルビゾン派の絵画を眺めている気分にさせられる。
●あみこうへい「ちいさなかわには」
ちへいからわたくしまでのほうせんか
がるしあをよつおりにするぶるーすで
●なんかいもよびとめているはるがすみ
我が娘が求婚をされ、その答えに窮する大伴家持の心境を詠んだ返歌「心ぐく思ほゆるかも春霞たなびく時に言の通へば」をふとおもう。春霞に人の言葉はあいまいになる。この国の風土をよく知る者の一句と言えよう。
●大下真理子「てのひらに」
あたたかく鳥眠らせる流離譚
寒に入る海の群青ひるがえし
●まして今は葛の葉ばかりひるがえる
信田妻でおなじみ「恋しくば尋ねきてみよ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」からくると言われる「葛の葉裏」を詠んだものか、収束の目処も立たないままでいるコロナ禍や戦禍は多くの人を悲しませ、そしてうらみばかりが蔓延っている。とかくこの世は生きづらいと嘆いたのは漱石だが、さらに現代は生きづらい世の中になってしまっているようだ。
●野間幸恵「黄色のセンテンス」
いっせいに無音生まれる記号かな
再会の平行線を椅子りけり
● 長閑なり鍵というもの失えば
いつから日本は鍵をしっかり閉めるようになったのか。ぼくの住む下町でも隣家同士の行き来が盛んな頃は鍵などろくに閉めなかった。それは畢竟現代人のパーソナルスペースがパブリックな領域に拡大浸出した事によるものなのかもしれない。鍵で公私を区切られる現代は果たして生きやすいと言えるだろうか?掲句はひょんなことから鍵を無くし家人が戻るまでの時間にふと作者が取り戻したゆったりとした時間が不思議と豊かであった事を詠んでいるのではないか。ぼくらは合理や効率のみを指標にしていては幸せになれないのかもしれない。
里俳句会・塵風・屍派 叶裕
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