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群像にエッセイを寄稿しました(全文公開)

「群像」2020年11月号(2020年10月7日発売)に掲載された「天文学的比喩としての他者」の全文です。ご許可をいただいたので、note上に公開いたします。

天文学的比喩としての他者

 光の速度が有限であると科学的に認められたのはいつだろうか? よくよく考えてみると、ここには途方もないものが潜んでいる。光というあまりにも速すぎる対象をどのように測定したのだろうか? それまで無限であるとされていた光の速度が有限の値であることを史上初めて示したのは、デンマークの天文学者オーレ・レーマーだった。1676年のことである。


光の速度の有限性は、この地球上での実験で確かめられたわけではなかった。光の速度が有限であることのヒントは、地球からはるか遠く離れた木星の衛星イオの不可解な挙動にあった。ガリレオによって発見された木星の四つの衛星のうちの一つであるイオは、地球を周回する月と同様に、規則正しく木星の周りを運動しているはずだった。しかし地球から観測すると、木星の裏に隠れる(「食」の状態)時刻と、手前に出てくる時刻が事前の計算結果としての予測よりも数分早かったり、遅かったりする事実が見つかった。つまり、規則的に運動するはずの衛星が不規則な挙動を見せたのである。それは衛星の動きとしてはあり得ないことであり、事実としてそこにある矛盾に当時の天文学者たちは衝撃を受けた。レーマーは「地球と木星との距離」と「イオの食と出現の時刻のズレ」に関係があることに気づいた。そして、それは光の速度が有限であると仮定すればうまく説明がつくものだった。地球と木星との距離は最も接近したときと、最も離れているときでおよそ3億キロメートルの差がある。つまり、イオは規則的な周回運動をしているのだが、そのイオからの光が地球に届くまでに時間がかかり、そのタイムラグは地球との距離の関数となるがゆえに、あたかも不規則な運動をしているかのように見えたというわけなのだ。この観測データに基づいてレーマーが算出した光の速度は秒速約22万キロメートルであり、これは世界で初めて算出された光の速度の有用な近似値であった。レーマーはその数値を用いて、1676年11月9日に起こるはずのイオの食の時刻を予測し、実際、ほぼその通り観測された。


 さて、なぜ天文学の事例を紹介したかというと、天文学には「特殊な制約」が課せられているというユニークな点があるからだ。特殊な制約とは、この地球上から出て行って、天体やこの宇宙空間についてしらみつぶしには調べることができないという制約である。つまり、天文学者たちはこの地球に閉じ込められた状態で、この地球の外部について研究しなければならないのだ。極めて当たり前で単純な指摘だと思われるかもしれないが、そうではない。紀元前から、この地球の大きさも、月の大きさも、月までの距離も、太陽の大きさも、太陽までの距離もすべて分かっていた。時代が下り、レーマーは光の速度が有限であることを発見し、アインシュタインは観測者の速度に依らず光速度は一定であることを示し、ハッブルはこの宇宙が膨張し続けていることを見出した。利用することのできるすべてはこの地球上で観測できるデータと蓄積されてきた理論と数学だけである。実物を直接見ることも触れることもせずに、そのありさまを詳細に把握することができたという事実は驚くべきことではないか。この地球に閉じ込められながらも、「天文」つまり宇宙から届くシグナルを受け取り、そこから合理的にこの宇宙を理解しようという情熱がなければ不可能な偉業ではないだろうか。レーマーはイオの不可解な挙動という間接的なシグナルを受け取り、そこに明確な意味を見出そうとした。言い換えれば、不合理な挙動の裏に潜む合理性を信じたのだ。それはすなわち、この世界、この宇宙が示すはずの「秩序」に対する圧倒的な信頼である。木星という地球から遠く隔たった場所でも、同じ宇宙の一部であるのならば法則性が成り立つはずだ、というそれ自体は証明不可能な、根拠を欠いた信念である。天文学の歴史には、宇宙を知るためのシグナルとなり得る変則事例(アノマリー)の発生とその合理的解釈の努力という組がいくつも存在している。


 直接把握することはできず、観測する対象は「今ここ」からは遠く隔たっているが、そこから発せられる何らかのシグナルに宿る合理性と整合性すなわち秩序を信じ、そのシグナルの意味を正しく探り当てること。これは「他者と出会う」ときの我々のなすべき所作と同型である。他者の心は見えない。触れることもできない。何を考え、何を思い、何を感じているのかを直接的に観測することはできない。<私>は<私の心>に閉じ込められ、<他者の心>は外部にある。ただ目の前にあるのは、表情や行為あるいは言葉といった間接的なシグナルだけである。言葉は正確に心を映しているとは限らない。いやむしろ、<私>がその<他者>を理解しなければならないと感じる重大な局面において、言葉は字義通りの意味を持たない。だが、ヒントはある。その<他者>が、悲しむ必要などないときに悲しみ、喜ぶべきときに喜ばないといったような、不可解な挙動、矛盾を示したときである。そこにその<他者の心>が示されている。その矛盾にその<他者の記憶>が畳み込まれている。


   他者とは、距離の遠く離れた惑星のような存在である。
   そのたった一人の<他者>を通して、人間の悲哀を知る。
   レーマーがイオの不可解な挙動という一つの矛盾から、光の速度の有限性という普遍的事実へと至ったように。


(「群像」2020年11月号掲載)

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