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「別の見方」へ誘うこと‐‐『世界は贈与でできている』刊行によせて

初めまして。近内悠太です。先週、『世界は贈与でできている:資本主義の「すきま」を埋める倫理学』という本を上梓しました。

僕は、大学の学部では数学を、大学院では哲学を学びました。数学と哲学を学んだ人間がなぜ、「贈与」(=お金で買えないもの、見返りを求めず何かを差し出すという行為)についての本を書いたのか、不思議に思う方がいらっしゃるかもしれません。自己紹介も兼ねて、そのあたりを書いてみますね。

数学だけが「自分の手で確かめられるもの」だった

まずそもそも、なぜ僕が数学を学んだのかというと、数学が「自分自身で確かめることのできる確実な知識」を扱っていると感じたからでした。

数学では、その「正しさ」あるいは「誤り」を、僕ら一人ひとりがこの手で確かめることができます。数学的主張の正しさは、僕らに備わった推論能力、理性によって確かめられます。物理学や天文学あるいは医学のように、高度な観測装置による実験もいらなければ、考古学や歴史学のような遺跡の発掘や史料分析も必要ありません。

かつての僕は、理科や社会科の授業で「事実」として習うあれこれが、一体どうやって確かめられたのか、という点が気になりすぎて、授業にまったくついていけない子どもでした。さすがに「教科書に書かれていることはすべてフェイクだ」と疑っていたわけではありません。が、「そもそもこの科学法則や歴史記述の正しさはどうやって証明されているんだろう?」「その正当性の根拠は一体何なんだろう?」という疑問はいつも僕につきまとっていました。そして残念ながら、教科書にはその「根拠」は書かれていなかったのです(科学史や科学哲学という分野があると知ったのは、ずっと後のことでした)。

根拠の不在に対する強迫観念。そんな僕にとって、目の前の記述が「フェイクでない」と自分ではっきりと確かめることのできる数学は、とても安心できるものでした。ファクトチェックがその場でできるのが数学なのです。

ウィトゲンシュタインと出会う

哲学の歴史において「数学」は、「確実な知識」の理想像とされてきました。その理由は、数学が持つ、「フェイクに対するロバスト性」(フェイクがあったとしてもそれに惑わされず、ファクトチェックが可能な点)にもあります。 

哲学には「懐疑論」という立場があります。ふつうは疑わないものを疑う立場、疑ってしまう立場のことです。つまり、だれもが当然だと思っている何かに対して、それはフェイクかもしれない、あるいは、フェイクでないと言い切れない、という主張です。

その意味で、子どもの頃の僕は懐疑論者でした。そんな懐疑論者の子どもにとって、自分の手でその正しさをチェックできる数学は、ほんとうに「救い」だったわけです。

そして、そんな懐疑論の「病」から僕が癒えるきっかけは、20世紀を代表する哲学者、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインに出会ったことでした(まあ、今でも僕が哲学をやっているということは、「癒えつつある途上」なのですが)。

すべてを疑おうとする者は、疑うところまで行き着くことができないであろう。疑いのゲームはすでに確実性を前提としている。(ウィトゲンシュタイン『確実性の問題』、第115節)

この言葉に出会ったとき、ウィトゲンシュタインは僕の疑問や不安を共有してくれている、しかもその問題を乗り越えようとしている、と直感したのです(ウィトゲンシュタインの「確実性」については、『世界は贈与でできている』でも議論しています)。

また、ウィトゲンシュタイン哲学と親和性のある科学史家・科学哲学者のトマス・クーンや、哲学者のクワインなどの著作に触れ、また実際に物理学にも手を出すなかで、「理論モデル」や「原理」というものの意味がやっと分かりました。つまり、科学や歴史学の正当性が何によって担保されているのかがようやく分かったのです。

理論とは「別の見方へのお誘い」である

どういうことかというと、理科で習うニュートン力学の基本法則「作用・反作用の法則」も、経済学における「限界効用逓減の法則」も、それ自体が徹底的に確かめられた不変の真理、絶対に正しい法則というわけではなかったのです。そうではなく、「このように世界を眺めてみませんか?」という「お誘い」だったのです。

その基本法則に基づいて世界を眺めてみたら、多くの現象が説明でき、未来予測が可能となる。理論が持つそのような「生産性」によって、その理論の正当性や確実性が保証されるのです。

だから、ある理論の中で前提とされる「原理」とは、「絶対に正しい真理」のことではなく、「この原理を前提として、この世界を眺めてみませんか?」というふうに僕らを誘い、僕らに新しい見方、新しい視座を提供してくれるものの別名だったのです。

たとえば、科学の歴史のある時点で、天動説から地動説へのパラダイムシフトが起こりました。しかし、当時、天動説が決定的に間違っていたというわけではありませんでした。「地球が世界の中心であり、他の天体が地球の周りを回っている」という原理の下でも、当時知られていた観測事実の多くをちゃんと説明できていたのです。

では何が変わったのか? それは、「この世界の見方」です。

原理を変えたら理論が変わり、世界の見え方が変わった。そして、それまで観測できていなかった多くの事実が判明し、その「世界の見方」の正当性が徐々に高まっていった。そんなふうに、「原理」は、僕らにこの世界の眺め方を教えてくれるのです。

さて、そろそろ数学、哲学、科学の話から「贈与」についての話に移りたいのですが、少々長くなってしまいました。次の記事で改めて書いてみたいと思います。

#本

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