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【ほそのゆうたのプロフィール】~アダルトチルドレンだと自覚したことが、人生のスタートラインだった~

ほそのゆうたの実家では、親=神様でした。
親の言うことが絶対で、親と違う意見を言うと容赦なく否定される環境で育ちました。

ありのままの私をまったく受け入れようとしない父。
過剰なまでに口出しをする過干渉な母。

自分の思いを口にしても、怒られ、否定され、嫌な気持ちになるばかり。

10歳にも満たないころから「どうせ親に何を言っても無駄」という精神が叩き込まれ、『親が納得するかどうか』だけを考える毎日でした。

『自分の本当の気持ち』なんて、どこか遠くへ行ってしまいました。

しかし、それ以上に問題だったのは、私が『仲の良い最高の家族』だと思い込んでいたことです。

私の家庭は、まぎれもない機能不全家族です。
子どもが安心して過ごせる家ではありませんでした。

しかし当時の私が、自分の家庭がおかしいという自覚や、親の行動に疑いをもつことは、全くなかったのです。

私の人格を否定するようなことを言われても、「普通の親はそういうもの」「親は私のために注意をしている」と信じ切っていました。

とはいえ心はとても敏感です。
親の反応に右往左往する不安定な日々を送っていたことで心身に不調をきたすことが多く、友人からは「躁鬱同盟」と言われるほど、気持ちの増減が激しい人間になっていました。

アダルトチルドレンはストレスから何かに依存しやすいと言われていますが、私はギャンブルにのめりこむことで、無力感や不安を紛らわせていました。


そんな私がアダルトチルドレンだと自覚できたのは、30歳のころ。
それが私の人生のスタートラインになりました。あの頃の私と今の私では、3つの大きな変化があります。

✅誰かを、心から好きになったり、信頼できるようになった
自分の本心が分かるようになった
✅『親の都合』と『自分の気持ち』をどちらも受け入れたうえで、自分の気持ちを優先できるようになった


この記事では、この3つの大きな変化の話を中心に、私がアダルトチルドレンを自覚した当時から今に至るまでをまとめました。

私の感覚としては、「ひとつの大きな出来事で人生が変わった」という感覚はありません。行動し続けたことで私自身の心が変化していき、少しずつ誰かを信頼できるようになって、自然と自分の気持ちを優先できるようになった感覚があります。

『親との関係に悩んでいる方』や、『アダルトチルドレンの自覚がある人』、『本当の自分を見つけたい人』に参考になる内容になっていますので、お気軽に一読してみてください。




(1)31歳で自分の大きな問題に気付く

私がアダルトチルドレンという存在を知ったのは31歳の春。妻からのラインで初めて目にしました。最初は「へえ、そんなものもあるんだ」ぐらいの印象。私は親子仲が良いと思い込んでいたので、自分とは全く関係のないことという認識でした。

当時の私は『傾聴』を学ぶために、産業カウンセラー養成講座に通ってカウンセリングの勉強をしていました。100時間以上の実技演習が組まれている本格的な講座です。
ちなみに受講を決めたとき、親はいつものように「またそんなのに20万円も払って!」とお小言を言われています。別にお金を出してもらっているわけではありません。30歳を過ぎた大人が自分のお金を使ったとしても、親は当たり前のように文句を言ってくるのです。そりゃ、病みますよね。

話を戻します。
『アダルトチルドレン』の存在を知った1週間後、勉強の一環でカウンセリングを受けました。
カウンセリングでは、誰にも言ったことがなかった私の家庭環境をたくさん話しました。話せば話すほど、自分の家庭が『アダルトチルドレン家庭の特徴』に当てはまっているという現実に直面したのです。
「私はアダルトチルドレンだったのか・・」

このカウンセリングをきっかけに、私のアダルトチルドレン脱却への道がスタートしました。


・・・


(2)アダルトチルドレンを知る

最初に学んだこと

まずは、アダルトチルドレンについて徹底的に学びました。
最初に学んだのは下記のようなことです。

✅アダルトチルドレンは、家庭環境に問題がある
✅優等生や道化者など、何種類かのタイプに分類できる
✅自助会(アダルトチルドレン同士で話す場所)がある

最も衝撃的だったのは、私の家庭環境に問題があり『子どもを生きられなかった』という現実。親を安心させるため、子ども心を殺して道化者(ピエロ)を演じていました。


本来、子どもとは好奇心旺盛なものです。いろんなことにチャレンジして、成功と失敗を繰り返すことで、自分が何を好み、何が嫌なのかを理解します。
しかし、私はそれができませんでした。チャレンジする前から「あんたには向いてない」と一蹴され、親がやらせたいものだけをこなす日々。
自分がどうしたいのかなんてわかるはずもなく、漠然とした不安を抱え続けて毎日を過ごしていました。

『アダルトチルドレン』を両親に伝えた話

ある日私は、『アダルトチルドレン』について両親に伝えました。
「私はあなたたち(両親)に支配されていたから、子どもらしく生きられなかった。ずっとつらかったんだよ。」

私が期待していたのは、
「そんなつらかったのね。教えてくれてありがとう」
といった私を包み込んでくれる優しい反応。

しかし、現実はあまりにも残酷です。
私がつらかった事実を伝えると、
「そんなことはありえない。楽しそうにしていたじゃないか」
「私の子育ては間違っていない」
と言われたのです。
私には「お前の気持ちを受け入れるつもりは無い!」と言われたように感じました。とても悲しい思い出です。

ただ冷静に考えると、それもそのはず。
子どもの気持ちを受け入れない親だからこそ、私はこれだけつらく、苦しい日々を送っていたのです。
私が真実に気付いたからといって、親が受け入れるとは限りません。

これは余談ですが、少し前に5歳の誕生日のホームビデオを見ました。
映っていたのは、楽しいバースデイ・・・ではなく、親が決めた5歳の目標を強要され、辛そうにしている姿。
後日父親に、5歳の私が苦しそうだったと伝えたら、
「楽しむために見せたんだ。悲しむために見せたのではない!」
と、逆ギレ。
私の気持ちを理解するつもりがないのは、今も昔も全く変わっていません。


・・・


(3)本当の自分を見つけること

自分の気持ちって、何?

私の実家では、親に反対することは許されませんでした。
嫌なことを嫌と言い、やりたいことをやりたいと言っても、親には受け入れてもらえないどころか、逆ギレされることさえありました。

そんなある日、私はある気付きを得ます。
自分の気持ちのせいで親に怒られるなら、自分の気持ちを消してしまえば平穏に過ごせるはずだ
こうして自分の気持ちを心の奥に封じ込めたことで、本心が分からなくなったのです。

本心が分からない人と、表現できない人

アダルトチルドレンには、『自分の本心が分からない』人と、『本心は分かっているけど表現できない』人がいます。

私は完全に前者、『自分の本心が分からない』人間です。
「何が食べたい?」
と質問されても、全然思い浮かびません。心と脳の間に分厚い壁があって、自分の本心を拾い上げられないのです。

一方で、妻は『本心は分かっているけど表現できない』人間です。
何が食べたいかはすぐわかるそうですが、相手の好き嫌いや相手の機嫌などから「今は言うべきではない」と判断すると、我慢して相手に合わせてしまうのだそうです。

『適性診断』の落とし穴

✅自分は何が好きなのか
✅自分は何が得意なのか
✅自分は何を大事にしているのか
✅自分はどんな生き方をしたいのか

これらは『自己理解ワーク』や『適性診断』をすればある程度見えてくるものですが、『自分の気持ちがちゃんとわかっている』という大前提があります。
私は自分の本心が分からなかったので、何度診断をしてもしっくりした回答を得られませんでした。

『適性診断』をする前に、『自分の本心』をしっかり自覚しなければならなかったのです。

親との境界線

私には、親との境界線がありませんでした。親が喜べば私も嬉しい。親が悲しければ私も悲しい。そんな生き方を30年以上もしていたせいで、『親の気持ち』と『自分の本心』がごちゃごちゃになっていました。まずは自分の感情に注意を払って、適切な境界線を作らねばなりません。

当時の私は、やりたくないことをお願いされて、「いやだな・・」と思ったとしても、親の洗脳を受けた脳が「やらなきゃダメでしょ」と命令します。この間わずか5秒。自分の感覚が一瞬で消えてしまうので、やりたくないという本音を全く自覚できませんでした。

だから私は、最初に湧き上がった感覚をつかみ取る訓練をしました。たった5秒でも「いやだな・・」と思ったのなら、その感覚を大事にする
最初は戸惑いました。「いやだな・・」と、その後に感じる「でもやらなきゃいけない」の、どちらが『自分の本心』なのか分からなかったからです。

ある日、最初の感覚に沿って行動するとスッキリした気持ちになり、後から湧いた感覚に従うと体が強いストレスを感じるということに気付きました。

「最初に湧き上がった感覚が『自分の本心』なんだな」

何年も試行錯誤を繰り返して、『自分の本心』がようやくわかってきました。


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(4)親と私

母親の死と、不可解な気持ち

私の母親は、2019年にガンで亡くなりました。葬式では多くの人から、「あなたの母親は、あなたのことが本当に好きだった」と言われ、とても不可解な気持ちになったのを覚えています。
「私のことを好きだったのなら、私に直接伝えてよ。」
それが私の本当の想いです。

本当に私を愛しているなら、なぜ私のことを否定するのでしょうか? 私が希望進路を伝えれば「お前には無理だ」と言い、仲の良い女性ができれば「あの子は悪い子だから付き合うな」と言う。親はそれを愛情だと思っていたのかもしれませんが、これはただの支配であり、干渉です。愛情とは、相手のありのままを受け入れること。私はそう信じています。

母親の葬式でも、私は全く泣いていません。忙しくて泣く暇がなかった・・のではなく、悲しいという感情がなかったからです。さらには、何も事情を知らない参列者から「お父さんの面倒見てね」と言われて、不快になったのをよく覚えています。

日本では、『子どもは(年老いた)親の面倒を看る』という考え方が一般的かもしれません。しかし、親の面倒を看るためには、親への感謝や尊敬の気持ちが必要だと思っています。感謝も尊敬もできない親の面倒を看るのはとても難しい。

感謝や尊敬というのは、自然と湧き上がってくるものです。寝る前にふと、「ありがとう・・」と感じられるかどうか。私の場合、妻に対して感謝や尊敬の念を抱くことはあっても、親に感謝や尊敬の念を抱いたことは一度もありません。空気を読んで「ありがとう」と言ったことはありますが。

実家を離れる決断をしたこと

私はアダルトチルドレンを知って1か月後に実家を離れました。今の私があるのは、あのとき実家を離れて親との距離をとれたからです。ですが、実家を離れるためには、多くの障害がありました。

ひとつめの障害は、心に宿る『罪悪感』です。
親が同居を望んでいるのは明白でした。明白だからこそ、親の望みを無視して実家を離れるということ罪悪感があったのです。私はいつも「なんで素直に分かりましたって言えないかね😡」と怒られていましたので、親の望みを無視するのはとても難しいことだったのです。

ふたつめの障害は、親に対する『恐怖感』です。
私が親と違う考えを述べると、親は強く否定します。それはもう、私の心がズタボロになるまで否定し続ける。
私はそれが怖かったのです。大人になっても、私の心は両親から否定されるのではないかと、常に恐怖していました。

最後の障害は、行動することへの『不安感』です。
私は、親から否定され続けていたことで、始める前から「どうせ失敗する」と感じてしまうことがありました。行動に対してどんどんネガティブになり、「行動しても、どうせうまくいかないんじゃないか・・」と思うようになっていたのです。

これらの障害を越えて実家を離れることができたのは、妻がいたからです。
妻はどんな話でも、真剣に聴いてくれました。決断できずに悩んでいると、私が決断を下すまで待ってくれました。
親に悩みを打ち明けると、「こうしろ」「ああしろ」とすぐ命令されますが、妻は全く違います。私が結論を出すまで、やさしく聴いてくれます。

妻がやさしく受け入れてくれたおかげで、「実家を離れたい」という本当の気持ちに気付き、すぐに実家を離れました。

親と距離を置いて気付いたこと

実家を離れ、親と距離を置いて良かったことは大きく2つあります。

1つ目は、気持ちが楽になったこと
実家暮らしのころは、親が家にいるとリラックスできず、ずっと緊張していました。親の足音にまで耳を張り巡らせ、常に張り詰めた状態。
『家は心を休める場所』という真実を、30年も知らずに生きていました。

2つ目は、自己否定が減ったこと
周りに否定的な人(親)がいなくなったことで、自己否定も減ったのです。人は思い込みの生き物です。実家では毎日のように親から否定されてていたので、「私は間違っている」「自分はダメな奴だ」と思い込んでいました。否定される環境から距離を置くことには、絶大な効果がありました。

親との適切な距離感

実家を離れたあとに考えなければならなかったのは、『親との距離感』です。頻繁に会うのか、会わないのか。それとも縁を切るのか。親は頻繁に「会いにきて」「実家に戻ってこい」と言ってきます。親に振り回されないために、自分が苦にならない距離感を理解しておく必要がありました。

私が苦にならない距離感は、『会うのは2-3か月に1回、LINEを1-2週間に1回』です。
毎月のように会っていたころは、かなりの精神ダメージを負っていました。会うたびに「そろそろ実家に・・」と言ってくるうえ、私が何を言っても聞く耳を持たないので、うんざりしていたのです。
しかし、3か月に1回の頻度であれば気になりません。親は何も変わってないのに、頻度を減らしただけで気にならないとは不思議なものです。

結局のところ、親との距離感に『全員に共通する正解』は無いのだと思います。自分が苦に感じなければOK。誰かに指示されるものではなく、自分の心にしか分かりません。


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(5)自分自身の変化と、新たな気づき

妻と出会って

妻と出会って私は変わりました。周りから「顔(表情)がやさしくなったね」と言われ、写真を見返すと目の印象が柔らかくなっていました。
誰と一緒に暮らすかはほんとうに大事なんですね。

実家にいたころは、親の動向を常に警戒していたから、目も鋭くなっていたのでしょう。今の環境では気を張らなくて良いので、自然と目つきもやさしくなったようです。

後輩から「天使みたい」と言われる

もうひとつの忘れられない思い出は、職場の後輩から
「ほそのさんって天使みたいですね」
と言われたことです。彼女はとなりの部署でしたが、毎日遅くまで残業しているのが気になって「手伝えることがあったら言ってね」と何度か声をかけたのです。

私の部署は複数人が残業していましたが、彼女の部署で残業していたのは彼女だけ。独りで残業をしているとイライラやむなしさを感じやすいので、そんなときに声をかけた私が天使に見えたのかもしれません。

『天使』と言われたのが予想外すぎて、心に強く残っています。
優しくありたいと思っている私にとっては、とても嬉しい思い出です。

独りの人を気にかける

振り返ってみると私はいつも、独りの人を気にかけていました。
終電でも帰れずに独りで動画作成をしていた後輩をフォローしたり、部長との意思疎通が図れずに孤立していた後輩の手助けをするなど、得意な人間観察力を活かしてよく声掛けをしていました。

これには私自身の経験が大きく影響しています。私の家族はみんな否定的で、自分のことを相談できる相手は誰もいませんでした。そんな時に偶然見つけた電話カウンセラーの先生、一緒にカウンセリングの勉強をした仲間、そして妻。私は、優しく話を聴いてくれる彼らに救われました。

私自身がそんな体験をしたからこそ、独りの人を見たときに、自然と声をかけていたのだと思います。


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(6)これからの私

『アダルトチルドレン』は永遠のテーマ

私にとって、『アダルトチルドレン』は永遠のテーマです。
今は「アダルトチルドレンを克服できた」と自信を持って言えますが、いくら歳を重ねても、私が過保護で過干渉な親のもとで、生きづらさを感じながら育ったという事実は変わりません

そして31歳のあの時、『アダルトチルドレン』という単語をスルーして流れに身を任せていたら、今もずっと生きづらさを感じていたことでしょう。
『アダルトチルドレン』という事実にしっかり向き合ったからこそ、新しい人生を歩み始めることができました。

独りで悩む『アダルトチルドレン』と一緒に

私が「アダルトチルドレンを克服した」と言えるのは、妻が話を聴いてくれたから。ひとりでも話を聴いてくれる人がいると、なりたい自分を目指す勇気が湧くんです。

なので私に、あなたがなりたい自分を目指すためのサポートをさせてください。

私はひとりでも多くの人が、自分の生き方に納得して、「アダルトチルドレンを克服できた!」という姿が見れたらとても幸せです。

「私もACを克服したい。だけど勇気が無い・・。」

そう感じている方に向けて、「アダルトチルドレンの克服とはどんな状態か」や、「ACを克服した私が自覚している大きな変化」について詳しくまとめました。以下のリンクより、ぜひご一読いただければ幸いです🕊




ここまで読んでいただきありがとうございました😊
それでは末永く、ほそのゆうたのnoteをよろしくお願いいたします。



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