【アダルトチルドレンエッセイ】ほんとうにやりたかったことをして生きる/ACのぼくが考えるアダルトチルドレンの生き方
昔のぼくは、『アダルトチルドレン』を説明するのに必死だった。
できるだけわかりやすく、ひとりでも多くの人に伝わるように、説明文を書いては直し、書いては直しの繰り返しだった。
もちろん、人にわかりやすく伝える技術には価値がある。
ぼくの発信で自己理解が進んだ人もいるだろう。それはとても喜ばしいことだ。
けれど、それはほんとうのぼくがやりたかったことなのだろうか?
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今ならはっきりと言える。
ぼくがやりたかったことは、アダルトチルドレンをわかりやすく説明し、広く伝えることでは無い。
アダルトチルドレンとして多くの年月を過ごしたぼくが、何を感じ、どんな悩みを持っていたのか、ぼく自身の感情をありのままに表現することだ
これは誰かからアドバイスされたわけではないし、適性テストで見つけたわけでもない。
けれど、心が「感情をありのままに表現したい」と言っている気がした。
だからぼくは、こうしてエッセイを書き始めたのだ
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感じたことや思い浮かんだことをありのままに表現しているときは、とても楽しい。楽しいと言っても、「ワクワク!」とか「うひょー!」みたいな、興奮とは違う。
例えが汚くなってしまうが、トイレで大きいうんちを「ポンッ!」と出せたときの『スッキリ感』に近い。
感じたことや思い浮かんだことをありのままに表現することで、頭の中でずっとモヤモヤしていたものが外に出る『スッキリ感』を得られるのだ
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ただし、気を付けなければならないこともある。それは、表現の途中で他人を気にしすぎないこと。ぼくは無意識のうちに他人を気にしてしまうからだ
他人を気にしながら書いた文は、まったくもってつまらない。
どこか他人行儀で、「この人、ほんとにそんなこと思ってるの?」と疑いたくなる文章になってしまう。
この感覚はぼくならではのものだろう。
なぜなら、他人行儀の文章にもメリットはあるから。
多くの人に広く伝える文を書くならば、感情がたっぷりこもった文章よりも、無味乾燥した文章のが分かりやすいこともある
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これらの感覚を踏まえると、アダルトチルドレンをわかりやすく説明しようとしていた昔のぼくこそが、アダルトチルドレンという感じがする。
ぼくの心は感情を表現したがっていたのに、多くの人に広く伝える文章を必死になって書いていたからだ。そこには、自分の内なる想いよりも、他人の目を気にしている自分がいた。
ぼくの公式Xでの発信は2021年で途絶えているが、これは自分の心を無視していたからだ。
他人の目ばかりを気にしていたから、2021年に限界に達し、発信ができなくなったのだ
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ぼくの今後の課題は、内なる想いをちゃんと受け止め、その想いのままに表現すること。そのためにふさわしいツールがnoteだと思ったから、いまnoteでエッセイを書いている
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しかし、ひとつだけ大きな問題点に気づいてしまった。
「無名のぼくがエッセイを書くだけでは、人の心を動かすのは難しい」ということだ。
せっかく書くならば、ぼくと同じアダルトチルドレンで悩む人に対して、何かプラスの感情を届けたい。エッセイだけではそれが難しいのだ
だからぼくは、エッセイも説明も、どちらも書くことにした。
昔のぼくは「分かりやすく説明する」ことに縛られすぎていた。アダルトチルドレンを知ってすぐの人、知ってから1か月たった人、1年たった人、10年以上たった人。みんな求めるものは違うのに、全員に分かるように書いていた。だから答えが見つからずに疲れたのだ。
それに気づいて最初に書いたのが、この記事{アダルトチルドレンを自覚した人は、最初に何をすればいいのか/実体験をもとに詳しく紹介【アダルトチルドレンの治し方】}だ。
この記事は、アダルトチルドレンを知ってすぐの人に向けて書いた。すると、ぼくがアダルトチルドレンを知ったころの記憶がよみがえってきて、自然と筆が進んだ。
きっとぼくは、説明が苦手なのではない。「すべての人に分かる説明をしなければならない」と気負いすぎていたのだ。
もしあなたが、最近アダルトチルドレンを知り、自分がアダルトチルドレンだという感覚があり、どうしていいか分からないのであれば、ぜひこの記事も読んでほしい。きっと役に立つはずだ