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ありのままの自分を認めることが凄く恐いんです。

ありのままの自分を認めることってやっぱり恐いなっと思うんですよね。

11月30日に山田博さん×小寺毅さんの特別対談『森のような生き方』に参加してきました。

このイベントはフリーテーマの対談形式で、お話が展開されていたんですけど、個人的に一番印象に残っているのは、成果や価値を得よう得ようとすればするほど、見えなくなって得られない。というお話が印象的でした。

ありのままの自分には価値がない。

僕はありのままの自分で人と関わることが苦手です。ちょっと背伸びした自分だったり、素の自分(自分の核)に人が近づいてこないようにしています。いつも気を使っていて、相手に失礼のない振る舞いを心がけていたり、どんな場にいてもこの場の意図は何なのか?自分の意見を言うときは相手が求めていることに合わせて発言をしてしまう。そんなことが頻繁に起きています。

それは、人に気を使っていないと迷惑をかけてしまったり、不快な想いをさせてしまう。場作りやMTGでは視座の低い意見しかだせない存在だと思っているからです。そういう自分がありのままの自分なのに、ありのままでいいって言えないのが今の自分でもあります。

とっても恐いんです。

何かを頑張らずに肩の力を抜いた自分で生きるのはとっても恐いんです。何かを頑張らない自分で生きるということは、人に迷惑をかけるかもしれないし、不快な想いをさせるかもしれない。チープな発言しかできない自分で人と関わるってことだと思います。それがとっても恐いんです。

本当の自分はクソガキな自分で、人に気を使えないし、迷惑をたくさんかけるし、不快な想いもさせるし、自己中心的で、ボーッと生きてて、MTGや場作りで誰かに気づきを与えられるような発言はできない。

こう書いている自分を客観視してみると、自分にないものを捉える力はあるのかもしれないですね笑

でも、本当はないものねだりとか、背伸びした自分じゃなくて、クソガキでpoorな自分を認めて生きていきたいんです。

恐さはなくならない。

昨日のイベントに出てきた恐さはなくならない。恐さとは一生付き合っていくものである。これを聞いた時にそっか、、、どんなに凄い人の中にも恐さはちゃんとある。でも、上手に向き合うことができるから強い人なんだ。と気づかされました。

今の僕は恐がってばかりだし、恐さに真正面から向き合うことを避けているですけど、やっぱり自分の可能性を花開かせて生きていきたい。恐いけど、クソガキでpoorな自分を表現することを諦めない生き方をしたいです。

バッターボックスに立っていく

ありのままの自分で生きたいなら、恐くてもその自分を表現していく場に立ち続けることを諦めないのが大事なのかなと。

気がつけば 口癖が 自分を縛る呪いみたいで
嘘でもいい I can do it I can do it 言い切ってしまおう
引用:https://www.lyrical-nonsense.com/lyrics/porno-graffitti/theme-song/

これはポルノグラフィーのテーマソングという曲なんですけど、このフレーズのように生きたいんですね。そして、自分からバッターボックスに立っていくということをしていきたいです。

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