10/2 人を追い詰めていることを自覚しつつ自分を正当化するダメな自分

本日、職場で月に一度のイベントを行いました。

とても楽しい時間だったな~と思う反面、ふりかえりの時間に自分の特性というか意識が強く出すぎて「あ~追い詰めているわけではないんだけど、同僚から拒否反応出てしまっているな~」と反省しております。

わかっちゃいるけどやめられない。

この構造を少し考えてみたいと思います。


基本的にはすべてが良かった、その前提でふりかえりは行い始めました。

全くその通りで、とてもいい時間が流れていたので僕としても非常に満足していました。

途中から同僚が言った発言が僕の頭の中で理解できないものが出てきました。

その理解できないものを理解したく「それってどういう意味かな?」とか「今の話は資源の話と感覚の話がごっちゃになってるけど真意はどっち?
」みたいな質問時間がスタートです。

振り返りや会議でよくあるのですが、前提が共有できていないと理解できない、その単語の意味を知らないと理解できない、という場面が多々あります。

そういう時は意識的に「それってどういう意味?」とか「ごめん、不勉強でそのワードの意味が分からないんだけど教えてくれる?」といったことを意識的に行っています。

それは、理解できないとその発言はただの音になってしまうからです。

そのため話の流れで理解できないことが出てくると必ず聞いているのですが、それが発言した本人も整理できていない時にどうも問い詰めている感じになってしまいます。

僕としてはその場、その時間がより有益になるために全員が理解できるようになるほうがいいと考えますのでそうしているのですが、発言した人が問い詰められると感じてしまうと発言ができなくなってしまいます。

そのためにできる限り柔らかく聞くようにしたいと心掛けているのですが、本気でその人の発言を理解するのに全力を注ぎ始めると、そういった配慮が途中からどこかに行ってしまいます。

なのでミーティングの時は没頭しないように、客観的に板書係にすっと入るようにしているのですが、いかんせん話が面白すぎて完全に主観的に入り込んでしまいます。

これもダメですね。


僕のできる最大って何だろう?

その場が楽しく、次に向かうエネルギーがたまるような時間になるのがベスト。

そのために心理的安全性が担保され、自由に発言でき、次のチャレンジがイメージできるようなミーティングにしたいと思っているのですが、なかなかそううまくはいきませんね。

明日、問い詰めるみたいになった同僚と話をしよう。


意図とか狙いをロジカルに考えるようにしている自分がいるのですが、それってどうも同僚にとっては窮屈なのかもしれませんね。

でも、こういったレベル感でぶつかり合える仲間がいるのは非常に幸せなこと。

まだまだ成長できるぞ、俺。

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