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雨音

 僕がまだ高校生の時分のことだ。その日は大雨で、まるで滝が地面から生えているようだった。夜の雨は家の窓からの灯りを反射して黒々とした中に白い光を放っていた。空から垂れた大量のビニールテープが揺れるようで少し幻想的な気分に浸っていると、階下から姉が上がってきて、何だかじめじめして嫌な気配だから今日はエアコンのある二階の僕の部屋で寝ると言ってきた。僕は眠る前だというのに、階下に降りてミルクたっぷりのコーヒーを淹れた。梅雨時にしては冷たい夜にコーヒーの香りが喉を滑って、体の奥を温めるのを楽しんだ。

 犬が撫でて欲しそうに足に擦り寄って来た。ずぶ濡れになるのも可愛そうだから家の中に入れたのだが、余程嬉しかったのか、さっきまで家族と一緒にバタバタと遊んでいた。今は疲れてしまったのか僕の顔を大人しくジッと見つめるのだった。少し大げさに頭や顎の下を撫でてやると満足したようで、ケージへ帰っていった。

 川辺りの家だから、というのもあったかもしれないが、僕たちは油断していた。朝起きると一階は薄く床下浸水していて、放って置かれた雑誌はよれよれになっているし、座椅子もずぶ濡れ、ニンテンドースイッチは水没してしまっていた。それを見て僕はかなり消沈したが、両親はむしろこの処理に追われることを思って頭を抱えている。排水して拭き掃除して床などのケアをするのは、恐らく僕も姉も駆り出されるだろうことがわかるし、だから勿論僕らも憂鬱だった。

 家族全員が呆然としている中、そう言えば犬はどうしたのだろうと思ってケージに向かうと、信じられない光景にあっと声をあげた。というのも犬は背中の僅かな部位を残してシュワシュワと水に溶けていくではないか。僕は急いで近寄って、その背中を抱きかかえたのだが、溶解は留まることを知らず、ついに腕の中で水となって床に落ちてしまった。

 家族全員がその一部始終を見ており、誰もがびっくりしてお互いの目を合わせてパチクリとしていた。愛する犬が消えた。昨日の夜頭を撫でてやった犬が手の中で水と溶けてしまった。しかしみんな浸水のことで頭がいっぱいになっており、この事実は最初あまり大きな感情を産まなかったが、排水作業をしているうちに徐々に杭のように心に沈んで来て、気付くと激しい痛みを伴って僕を襲ったのだった。

 あれから数日、犬の消失は僕の中で、壊れたニンテンドースイッチよりも大きなショックとなって蟠っていた。久々に家に入れてやったのだから、一緒に二階の僕の部屋で寝てやれば良かったのではないか、という栓のないことを思わずにはいられなかった。親は勿論、僕が随分気に病んでいることを心配して、僕のせいではないことを説いてくれたが、馬耳東風といった体で言葉はただ僕の表面を滑り落ちるだけだった。

 傘を差すか迷うような小糠雨が降るある日、僕は煢然として道を歩いていた。少しくらい雨に濡れるほうが心地良いという有様で、湿った頭を抱えるといっそ気分が晴れる気がした。そうして近所の家々の立ち並ぶ小道を歩いていると、前方に傘を持った中性的な服装の人がぼうと立っている。ぼうとしているのは態度の話ではなく、その見た目だった。すなわち、いくらその目を擦って見ても、彼或いは彼女はその中性的な服装以外にその実体を表していなかったからだ。

 いわゆる透明人間というやつである。それが僕の正面の道からこちらの方へ歩いて来る。狭い道ではあるがすれ違うスペースがあることを確認して、「なに、顔合わせないように横を通ってしまえば良い」と僕は構わず前進した。しかし透明人間は私を正面に捉えて足を止めた。そしてやはり男とも女ともつかない不思議な声で「もし」と言った。

 傘から薄く垂れる雨水が彼或いは彼女の右肩を湿らせた。よく見るとその右手には何かリードのようなものを掴んでいる。リードの先にあるのは、虚空でぽっかりと浮く首輪だ。僕は思わず足を止めた。何故だかわからないが、その透明人間がまっすぐ僕の顔を見ていると思ったのだ。逃れられないと思ったわけではない、そうではなくてこの人は僕に何か用があるのであって、それを無視して通り過ぎるのは如何にも情に悖るように思った。

「なんでしょう」と僕は掠れた声で言った。それは少し怯えたような印象を与えるような音で、少し心外に思ったが、しかしこのような怪奇を前にそれはむしろ体の素直な反応であり、気持ちがそれに気付いていないだけのことだった。僕は少し震えていた。

「すみません、お呼び止めしてしまって」
「いえいえ……」と僕は恐らく顔があるであろうところを見ながら言った。
「この子、あなたのお家の子じゃないでしょうか」

 透明人間はそう言うと右側にある、リードの先の方を向いたようだった。姿が見えないのにその気配を感じるとは不思議な感覚なのだけれど、確かに仕草がなんとなく伝わってくるようである。リードの先から息遣いが聞こえてくる。そしてそれが一声、ワンと鳴いた。その鳴き声にハッとした僕は、濡れるのも厭わず膝を突きその鳴き声の主に手を近付ける。すると透明なそれはぺろりと温かい舌で指を舐めたのだ。その舌の熱が指先から神経を伝い体の芯を温めると、目頭が熱くさせて目をうるませた。

「確かにうちの犬です」確かにうちの犬だと思ったのだ。
「そうですか」

 微笑んでいるのが不思議とわかるような柔らかな優しい声だった。彼或いは彼女はリードを僕に渡してお辞儀をした。僕もつられて頭を下げたのだが、まだ聞きたいことがあった。

「あなたは一体誰なんですか、何故うちの犬は溶けてしまったんですか」

 すると透明人間は右手を口元に置いて一呼吸を置くとこう答えた。

「あなたは心の底から寂しいとか幸せだとか思ったことはあるでしょうか」
「それは、どういうことでしょう。人並みにはそう思うことはあるとは思いますが」
「それらの感情は行き過ぎると人も動物も死んでしまうのです」
「それは比喩ですか」
「いえ、事実です。そういう強い感情は体と精神の境界を曖昧にして、肉体は緩み、心は滂沱と皮膚を伝い流れ出てしまう。雨水というやつはそういう不安定になった存在を濡らして、心地良いナルシシズムに似た溶解の感覚を与えるのです。あなただってそういう経験をしたことはありませんか、そういう日は何だか傘を差したくなくなるものです。」僕はその言葉に雨に濡れた自分を省みて、少し恥ずかしくなった。
「雨というのはそんな不思議な効果を持っているんです。人が雨音を聞いてある種の心地良い孤独感と甘い痛み、眠りへと誘うホワイトノイズはそうした雨の性質の副次的効果なのです。そして、良いですか、いつだって雨は幸福に満たされた人だったり、胸に寂寞を抱えている人たちを攫ってしまう。それは私だったり、あなたの飼い犬だったりするわけです」
「つまり僕の犬は寂しかったと」
「幸福だったのかも知れません」
「どちらかはわからないんですか」
「本人でなくてはわかりません」
「あなたはどちらだったんですか」

 間があり、雨足がほんの少しだけ強くなってきたような気がした。傘から水が滴って、彼或いは彼女の顔部分の向こうには翳った紫色の紫陽花が咲いていた。

「存在が消えてしまったものが観測されるには、その人のことを想う人がいるか、そこに誰かがいるかを認識される必要があります。この子はきっとあなたのおかげで整合性を保っているんですね。私は、服を着て歩くことを覚えました。これなら人に見えますから」

 あなたを想う人はいないのですか、とは聞けなかったけれども、多分伝わってしまったように思う。「では」と透明人間は言った。「その子はどうぞ大事にしてやってください」そうして彼或いは彼女は去った。

 犬を連れて帰ると家族のみんなは驚いた。姉は涙ぐみながら犬を抱きしめた。犬はお腹が空いていたのかよく食べた。そうして僕たちは犬が天寿を全うするまで一緒に暮らした。彼の一生が幸福であったことを願う。

 それから初恋の人と付き合い、別れ、喪失の痛みを癒やすために雨に濡れたときも、子供ができたときも、幸福の中ぬるい雨に打たれて泣いたときも雨水は僕を攫わなかった。本当の感情とは何だろうか、と考える。僕は本当に生きてきたのだろうかと考える。彼或いは彼女のことを思い出すけれど、その肉体が解けてしまうほどの激しくも誠実な感情というものの想像がつかなかった。あの人の言葉が棘のように刺さって抜けなくなった。

 僕は雨が嫌いになった。

【完】
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お題:水

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