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ペロリア

 風が出ていても何も靡くものがないような静かで灰色の風景。朝窓のそばで歯を磨きながら代わり映えしない景色を眺めるが、刺激を与えるものはただ安っぽい歯磨き粉の味だけだ。髪を結い外に出て深呼吸をする、気分が晴れることもなく曇ることもない、凪いだ感情を確認する。梱包箱ような建築物が規則正しく建ち並ぶ街の隙間を縫うように格子形の道が走って、朝のまばらな人通りに弱々しく生命が燻る。
 月曜日はいつもより早く家を出て、隣の駅まで自転車を走らせる。閑散とした道を疾駆する車輪は、無色な街を銀色に写して歪みきらめかせていた。墓地に着くと持ってきていた花を両親の墓に供える。塗り固められたなめらかな丸みを帯びた人の高さよりも少し大きな柱状のコンクリート、これが私の両親だ。
 これは私の両親であり、墓だ。昔の人の墓は墓石の下に骨が埋まっているらしいが、今の世の中では亡骸をそのままコンクリートで塗り固めて立てた、視力の悪い人が石膏像のデッサンをしたような、このひどく曖昧な人型の輪郭をもった像の如きものこそ墓の主流となっている。確かに私の感覚で言えば、土葬のように不衛生でもなく、火葬のように残酷でもなく、鳥葬のように野蛮でもないこの弔い方はいっそ清潔なようでもある。この灰色の遠眼的像がまばらな間隔で立っている景色を、ある風景写真家はそれをミニマリズムと称して撮ったが、私はそこに李禹煥《リ・ウーファン》の美しい静謐なインスタレーションを冒涜的に腐敗させたような稚拙さを見てひどく嫌悪したのを覚えている。そして、自分の目を通して見たこの無味乾燥な風景も、私は好きになれそうになかった。
 精気のないこの街を象徴するような墓地。
 仏花を供えると私は手を合わせる。二人が抱き合ったまま固められたこの墓は他の個人の墓よりも幾分か大きくなっており、頭部と思われる膨らみが二つ、ラクダの背のように盛り上がっている。旧来の墓と違って香を焚くことは禁止され、花を供えることも控えるように言われており、この花も二日とせずに墓守に片付けられてしまうだろう。それでも私は旧来のやり方を踏襲しており、それはただ単に美しいからというだけのことで、自分の信仰などはもともと持ち合わせていなかった。
 信仰。この墓場の形式はここ百年足らずに根付いたものだ。始まりは戦時中、火事場泥棒のような腐敗した国内政治に対して立ち上がった新世代学生運動で斃れた人々の亡骸を『壁』と呼ばれる象徴的な建築物の外壁として塗り固めたことから始まっている。理想に斃れるたびにその表面には人型の膨らみが増えていき、多くの死体が埋め込まれた『壁』は次第に分厚くなっていった。後年、その『壁』に英雄的な意味合いが付け足され、生まれ変わったこの国を表徴する埋葬方法として定着していった。
 そして理想を目指した英雄的な人々と市民たる我々は、必ずしも同一の理想を抱いているとは限らないのだ。少なくとも私にとってはこの世界はひどく潔癖で、一人ひとりが丁寧に管理されていて、限りなく限定的に保証された権利に息苦しさを感じている。多くの人はその揺り籠の中で情報や知を制限され、哀れなるかな、如何に金持ちであってもフィリスティニズムの奴隷である。それは平民たる私も同じだが。
 仕事場に行くと私はコピー機の紙を補充した。前時代的な慣習のシンボル。誰だってもう情報はデータでしか閲覧しないし、書物だって誰も所有したがらないのに、ここでは未だに何かを決定する為に紙の資料が必要だと思っている。然るに書物。私の家にはその誰も求めない骨董品が並んでいる。印刷された紙の文字を指でなぞると、仄かにその字の凹凸を感じられるようだった。実際にはそんなことはなかったろうが、その質感が私を喜ばせた。ただ読まずに本の文字に指を滑らせて、その書籍が優れた内容であればあるほど、愛していれば愛しているほど、その感覚は鋭くなるようであった。
 昼になると同僚の田臥《たぶせ》と昼食に出た。会社の食堂はレーションしか扱っていない為、食の楽しみを味わうには外に出る必要がある。誰だってレーションが食いたいなんて思っていない。その証拠にランチタイムのこのあたりの飲食店は常に人がごった返している。革命が寄越した清潔な完全食は歓迎されなかった。結局は少しくらい不衛生であっても人の手によって調理された料理への食欲が瀰漫《びまん》していた。
「また出たらしいぞ」と田臥は言った。
「あのグラフィティアーティストのこと?」
「そう、虎ノ門で。すごい、まるでバスキアのような色彩感覚だ」
「私も彼の活動はとても気になっているわ、この世の中にあってまるで野生児ね」 
 フラクサレーションと名乗る謎のグラフィティアーティスト。新世代以降の四角く灰色の整然とした建築物を中心にそれに異を唱えるような鮮やかで破壊的な色彩を投げかける。一夜の間に一つの建物をたちどころに彩り、その一帯でそこだけがまるで花開いたように見える。フラクサレーション、病床の彷徨う手のまさぐり、捜衣模床《そういもしょう》、この世界で滅びゆく何かに浮かされる譫妄状態のその手で描かれるのは混沌であって生の渇望である。彼、もしくは彼らが何者であってその目的が何であるかは不明だが、その活動を聞くと私は興味をそそられた。その興味や関心は、変化のない日々に起きた刺激に反応したただの脊髄反射なのかもしれなかったけれども。
 夜の帳が降りても街は明るい。昼間と変わらないような明るさに照らされた道。あらゆるものが明らかにされるべしという思想が見えるようなこの街にあって、一番暗い場所は自らの寝床である。遮光カーテンを引いて暖かい暗闇を作り出す。人の最も安らぐ場所が漆黒であるなんて、革命家は想像しなかったのだろう。私は目を閉じるとお気に入りの本の表紙を撫でた。へそのあたりが萎むような心地良い孤独を噛みしめる、睡魔がゆっくりと頭から爪先までを包んでいった。
 結局私は仕事をして、ただ一つの安らぎである睡眠の為に疲労し、日々を過ごすのである。欲望とは何だろうか。何かを死ぬほど希求するという大きな振動を伴う感情というものはどんなものであろうか。私は何かに激しく怒ることができるであろうか。想像がつかないのだ。想像すらできないのだ。それなのにとても空虚で、満たされているとは感じられない。
 いつも通り仕事に従事していると、上司が私を彼の自席に呼び寄せた。彼の如何にも満足そうな態度を見てこれは何か叱責されるわけではないのだとわかるとホッとした。しかし何故私がホッとしないといけないのか、さっぱりわからなかった。私は常に仕事を誠実にこなしているし、リスクを侵す前には必ず上司に相談をしているわけで、もし失敗があったとしても、多く場合は上司の責任であるはずだった。それなのにも関わらず私は叱責がないことにホッとしている。自分が如何にこの仕事に馴染んでいるのかを感じざるを得なかった。
 田臥は相変わらずフラクサレーションのことを話していた。この話題には否定派と肯定派がいるから面白いのだと言っていた。確かに彼らの活動は、場合によっては死罪になる可能性のある危険極まりないものだった。反旗のエートル。彼らの作品は場合によってはポリティカルな意義を持ったものとして受け取られるだろう。それだけに誰もがその真の意味を知ろうと議論するのだった。
 私は誰もがこの街、この風景を肯定しているものだと思っていたが、そうではなく、そのような議論が発生すること自体、人々がこの世界に疑問を持っていないわけではないということの証左だった。ここで生活することと、我々が何かを腹に一物を抱えることは、決して矛盾することがないのだと私は初めて気付くのだった。
 家に帰ると洗面所に立つ、手を洗って消毒液を浴びる。鏡のディスプレイが今日の健康状態、体重や血圧まで表示してくれる。会社の行き帰りだけの運動が齎す大したことのないカロリー消費量。お金持ちの乗るエアカーが空中を飛んでいるのが窓から見える。私のような貧乏人は一九世紀に発明された自転車と言うものを未だに使っている。そして私はこの自転車を少し愛着を持って乗っている。何れにしても今の世の中はきれいに整頓させられ、ミニマイズされ、行動を最適化することを要求する。そんな中で中流から下流の階級の人間は相変わらず前時代的な不均等の中に身を浸し、私はその猥雑さに少しの郷愁を持っていると言ったらどうだろう。
 キッチンで夕食の準備をしていると、ホロディスプレイにメールとニュースフィードの表示されるが、疲れた私はそれを読みもせず振り払うようなジェスチャーで消す。重要な情報やメッセージは赤くよりハイライトされた表示を示す、今日が平和で何事もなく、私が無視できる範囲の出来事しか無いという証左だ。何もない日だ、ゆっくりと眠れる。

 田臥と私は外回りをしていた。全てがオンライン、デジタルで処理される世の中だと言うのに旧態然としている我社は書類を持って顧客に会いに行く。全てが白く四角く整然とされた街にはこういった立ち退きのしていない旧式な商店や事務所もいくつか散見される、そう言った地域はどちらかと言うとスラムに近い見方をされており、中流以上の市民にとっては近寄りがたい場所と同時に旧来の時間が流れる郷愁の場として距離感を以って存在している。
 私は好んでこう言った職場を選んだわけではないが、かと言ってキレイで清潔なミニマル建築に惹かれているかと言われればそうでもなかった。いや、私は正直どちらでも良かった。私の中にはなにものも流れておらず、時間とルーティンが静かに繰り返される日々に安息を感じていたし、大きな刺激や変化と言うものを受け取るのはひどく疲れてしまうと考えている。仕事があって、ルールを守って、静かな日々を送れればそれで満足なのだ。
 田臥はそうではないのかも知れない。フラクサレーションの話題が起きてからの彼は様子がおかしい。ソワソワとして何かが起こるのを待っているような、落ち着かない雰囲気を醸し出していた。彼はミーハーな気持ちからそれを求めているのか、それともある種の共感を以ってそれに関心を示しているのか難しいところだ。もし後者であるならば、彼は危険分子として相応の罰則を受けることになるだろう、何しろフラクサレーションの行動は秩序を脅かす明確なテロ行為であって、死罪にも値する危険思想であることは間違いがないからなのは先も説明をした。
 彼らの行動原理とは何なのだろう、何を一体私達に伝えようというのか。人は秩序の中で安心して生活することに喜びを感じるとともに、台風の訪れに心を躍らせるような混沌を好む性質を併せ持っている。今の世の中には後者の入り込む余地は殆どない、人々の精神状態は管理され精神面に影響を与える劇的な天候の変化や人のイレギュラーな行動とというものを極力排除するように徹底してコントロールしようとしている。
 私はそれについてどう思っているのだろうという質問には何の意味もない、生まれたときからずっとそう言う生活をしているのだから疑問を挟む余地はない。私はそれが普通だと思うし、普通から逸脱することは平穏を捨てることに他ならないからだ。私は凪がいい。
 だが、田臥は違うようだった、彼がこの旧態然としたアナログで猥雑な仕事を選んだ理由は、そこに混沌があるからだと言っていた。彼は混沌を求めているのか、それがどんな危険なことか理解しているとしてもそれは心惹かれるものなのだろうか。
 ある日、田臥は言っていた。
「フラクサレーションは拡散するテロリズムだ、本物が誰か一人しか居ないとしても、その活動は多くの人間を動かして何れ何かかが起こるだろう」
 その言葉は程なく証明される。フラクサレーションのスタイルを真似た模倣犯が徐々に現れ始めた。晴れた朝の人通りの少ない住民地区の一角にグラフティが描かれた。それは稚拙なもので、色彩もくすみ、下手くそなスーツの人間が逆さまに吊るされていると言ったものだ。その他にも公園の遊具に、ブティック街の壁に、市役所の壁に、その多くはやはり中級から上級街のミニマル建築を対象に描かれていた。
 多くは芸術的価値の乏しいコピーキャットでしかなく、感動を覚えるような類のものではなかったが、何かが起きて、変化しているという実感が徐々に感ぜられた。

私は悪いニュースを聞いて会社を出た。田臥が街で暴れていると言うのだ。フラクサレーションのコピーキャットがその現行犯中に射殺されそこに居合わせた人間たちが抗議の声を挙げている。その中に田臥もいるという。私としては波風を立てたくないのですぐに彼を説得してその場を離れたい気持ちでいっぱいだった。
 街の喧騒は酷いことになっていた。たかだか落書きをした人間を射殺したとして、模範的ではない市民たちが命の重さを訴えて暴動のようになっていた。機動隊が出動して暴徒、そう言って良いものかわからないが、とにかくそれに近い状態の興奮状態になった人々と対峙して人々は殴り合っている。田臥はスーツをしわくちゃにして叫んで居る。
「畜生め! 俺たちは家畜じゃねえ、俺達は自由を、不確定の未来を、可能性を欲している! 秩序秩序秩序! 俺たちは多様な生き物だ、一律の生命体ではない! 個人が存在していて、それが生きているんだ!」
「秩序にとって最悪なのは、思考の放棄を多様性を認める態度に隠蔽する行為だ。おまえたちは多様性を言い訳に混沌の安楽さに落ちぶれようとしている!」
「俺たちは人間だ! 働き蜂のようにシステムで生きているわけじゃない」
「システムは人間の世の中を良くするための手段だ」
 私にはどちらが正しいのかわからない。だが、この喧騒、血、煙、それが私の生命を揺さぶっているのを感じる。私は叫んだことがない、私は感情に突き動かされて拳を振り上げたことがない。それがどんなものなのかわからない。田臥はきっとそれを知っている。フラクサレーションは多分それを知っている。何かが決壊しそうになっている。私は高揚している。
 田臥は叩きのめされた。地面にぶっ倒れて動かなくなった。私はそれを見て動揺する。人が倒れている。死んでいるのだろうか。死んでいることの静けさと生きていることのルーティンはどのように違うだろうか。私は田臥に近寄って彼の上半身を抱き上げた。息はある、ただ気絶しているだけだ。ホッと胸を撫で下ろして彼を連れて帰ろうとするが、機動隊が彼から私を引き剥がして、彼を拘束した。
「その人、怪我をしているんです。治療が必要です」
「秩序を守ることも必要だ。キミは彼の仲間かね」
「彼は職場の同僚です、彼を連れ戻しに来ました」
「ならそれは諦めるんだ。仕事に戻るといい」
 機動隊の隊員はそういと私を力強く押しのけ、私は尻もちをついた。私は今まで感じたことのない怒りを覚えていた。私を包み込んでいた平和がどんなもので形作られているのか、私は無知でしかなかった。
 田臥は帰ってこなかった。私は彼の分の仕事も抱えていつも夜遅くまで仕事をする羽目になった。でもそれは重要なことではない。

 ある日の月曜日、私はいつものように朝の墓参りに向かった。しかし、風景がいつもと違うように思った。最初は何故なのか気付かなかった。気付かないなんておかしな話だ。だってそこには色彩が踊っていた。
 曖昧な人型が立ち並ぶこの不気味な一帯がまるで弾けたように色とりどりに塗りたくられていた。そこには鳥や獣、草花のモチーフが描かれていた。フラクサレーションである。墓場はまるで熱帯のジャングルのように激しい色が炸裂していた。空中で弾けた絵の具が飛び散って像を結んだようなプリミティブな景色だった。それは目が覚めるような美しさで、私は花を両親の足元に置くと、蔦が絡まり花の咲いた彼らを抱きしめた。コンクリートの表面を撫でると、指先に少しインクが移った。
 ああ、私はいつもこの世界を壊してくれる人が現れるのを待っていたんだ。この街が徹底的に滅びて、自然が主導権を取り戻し、全ての廃墟に緑が、春には花が、人々のベッドで動物たちが眠り、真っ直ぐな道には狩られた動物の血が滲む。そういう世界をずっと待ち焦がれていた。ここに描かれた絵はまさにそれであった。
 思想。そうだ。これは思想だ。思想というものは曖昧模糊とした掴みどころのない存在であるのに、まるでこの絵のように実態を持って輝くこともあるのだ。前時代のある人は言った。思想には必ず敵があり、絶対に味方というものがない。何故なら思想とも利害とも無関係に結合するものこそが味方であるから、と。少なくとも、私の思想を呼び起こしたのはこの色彩の共感である。ここにある種の親しみを感じるのはロマンチストだろうか。このグラフィティは私たちから失われた生命を感情を取り戻せと慫慂《しょうよう》する。
 私の理想が後世にとって理想とは限らない。それでも私は自分の欲することをやめられない。そうでありたい。そう願っている。例えそれが徒花であっても私はもう生きることをやめられない。ようやく私の命が仄かに燃え始めたように感ぜられた。

【完】
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お題:コンクリート


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