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多様性ってなんなんだ続~「みんな違ってみんなどうでもよくない」を目指せるか?


朝5時からこんなポストを見て、なかなか面白かったので書き始めたら手が止まらなくなったのでそのまま公開。

多様性ってなんだと考えさせられる。

僕は多様性には「縦」と「横」のふたつの軸があると思っていて、縦はいわゆる社会階層や年齢、横は人種や民族、ジェンダーなど。そして、世の中で多様性を謳っている会社や人ほど、後者にしか目を向けていない(というより、多様性という言葉は「そもそも多様性の目的が先にあって初めて認識される」ものなので仕方がないとも思う。詳しくは昔匿名ブログで書いたので適宜参照)。

このブログにも記載のとおり、アメリカの大学院で多様性について強く違和感を感じることがあった。
多様性多様性と言いながら、入ってくる人たちは基本的にそれぞれの国で所得階層、社会階層の高い人たちばかり。この矛盾をどうとらえるのか。結局、エリート主義的な多様性(誰かの恣意的な指標によって「多様性」と認められた「多様性」)のみではないか、と青くも憤っていた時期であった。

僕が何より強く感じたのは、一部の白人エリートと議論していたとき、メルティングポットと言われながらも実際に混在空間に放り込まれた経験がないがゆえに、どこかしら「想像力の欠如」と「ナイーブさ(世間知らず)」を抱えていたこと。

存在は認知しているが、友人がいるわけではない。
生活の細かいところまで想像できるわけではない。

だからどこかしら議論に空虚なものを感じるタイミングが瞬間瞬間にあった。


一方、この論点は最近娘の小学校を考えるうえで顕在化した。ありていに言えば私立に行くか、公立に行くか、である。

妻とも話をしたのだが、僕は子ども時代、特に小学生までは重要な価値観形成期だと思っている。できるだけ多様な人に触れて、ぶつかり合いながらも自分なりの価値観を形成してほしいと思う。 でもここでも同じ問題が出てくる。

いや、じゃあお前のいう「多様」って何なんだ?と。

いろんな国籍の人たちが集まっているインターナショナルスクールなのか?それとも地域は限定されているがその場にいるすべての子供たちが通うこととされている公立小学校なのか?

真にあらゆる人々を包摂する多様性を内包した空間なんて存在しない。何かしら自分たちの基準でその場その場で最適な「多様性」を選び取っていくしかない。多様性にはそうしたジレンマが内在しているように思う。

だとしたら、僕はこうした時期には「縦」の多様性にむしろできるだけ接するべきではないかと考えている。なぜなら「横」の多様性との接点は大人になるにつれて広がっていくが、「縦」はむしろ縮小していくからだ。

宮台真司も似たようなことを言っていたと思うが、結局「大きな物語」を失ったいま、多くの人は「家族」や「友達」を通してしか自分ごととして考えられる範囲は広がらないように思う。

みんな違ってみんなどうでもいい」は大人のスタンスとしてはそれでいいかもしれないが、せめて幼少期は「みんな違ってみんなどうでもよくない」と思う空間の方がいいよな…としみじみ感じる次第である。


(追記)
っていうのを書いたあとで、別の方の投稿でこんなのを見かけた。

地域を超える「横の旅行」ではなく、同じ通りに住んでいる人がどういう人かをもっと深く知る「縦の旅行」が私たちには必要なのではないか、と話しています。自分の近くに住んでいる人でさえ、私とはまったく違う世界に住んでいることがあり、そういう人たちのことこそ知るべきなのです。」まさにこのこと。 カズオ・イシグロ、何冊か積読になったままなので、読んでみようかな。

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