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2024年の抱負

2023年の振り返りはクローズドな場に譲ることにして、ここでは2024年の抱負を語ってみようと思う。

自分も34歳であり、そろそろ「自分らしさ」で勝負していく年ごろらしい。

副業的に続けてきたPMIやムラツムギも、それぞれ小規模ながら安定した軌道に乗ってきているように感じられてきた。何より最近は「PMIらしい」「ムラツムギらしい」という言葉をよく使う。事業アイデアを思い付いた際、フィルタリングをかける視点として「それはPMIらしいか?」「ムラツムギらしいか?」という言葉を用いるわけだが、それは暗に、PMI、ムラツムギに(言語化されているかは別として)メンバー間で共有されている暗黙の「らしさ」=コンセプトがあり、それを相互に尊重しあう土壌が形成されているということでもある。

これはこれで大変喜ばしいことだと思うし、それぞれの「らしさ」を重視してゴリゴリ活動を進めていく以外にないのであるが、一方で自分自身を振り返ってみると、「田中らしさ」は一体どこにあるのだろうかと考える。

そういえばこの前ふと見た動画で落合陽一さんが自分のチャットボットを作っていると言っていたが、田中のチャットボットがあればどんな発言をするのだろう。


最近軽井沢で知り合った戦略デザイナーの佐宗邦威さんの著書に「自分時間を生きる」があるが、そこでも重視されているのが「自分らしさ」に沿った時間の使い方をしよう!ということだった(かなりかいつまんで言っているので、ぜひ直接手に取って読んでほしい)。

佐宗さんの本ではその具体的な方法論まで提示しているわけだが、それはそれで参考にしつつ、ちょっと自分なりに過去の思考メモや面白いなあと感じること、研究のキーワードなどを書き出してみた。
おおよそこの中で僕の興味関心のコアは網羅されている気がする。さて、何か共通点が見えてくるだろうか。

自治、死、自然、持続性、村落、民芸、信頼、個人、共同体、民俗、環世界、コモンズ、生活、ライフストーリー、過疎、ヴァナキュラー、ふるさと、看取り

これらをChatGPTに読み込ませて対話をしながら共通項を探っていくと、徐々にその輪郭が見えてくる。上記の諸要素に共通するのは、自己や社会、環境などに関する哲学的な興味関心、もうちょっと具体的にいえば、個人や共同体がどのように環境や文化と関わり、生きる意味や方法を見出しているかを考えること、のようである。

たしかに、少なくとも自分は物事の捉え方として、何か万人/万物に普遍的な視点から見るというより、その人の人生の中で育まれた価値観だったり所属する集団から見えている光景に惹かれる傾向が強いように思う。そして、そうした個人、集団独自の「ものの見方」が形成される過程、いいかえれば、個人や共同体が有している異なる価値基準やそれが形成される過程そのものに価値を感じる。

ここにはおそらく僕の生い立ちも関係しているだろう。僕は桜井市と大塔村という二か所で暮らし、都市と山村という異なる原理の間に暮らすという意味で、ロバート・パークの言う「境界人(マージナル・マン)」だった。その視点の違いは様々な場面に顕在化している。

例えば、幼い時から川や自然のなかに喜びを見出していた僕が、競争原理の極致のような都市の進学校に通い、偏差値というひとつの価値基準のなかに放り込まれたことは、物事を評価する「モノサシのゆらぎ」を強く体感する出来事であった。

この結果なのか、幼少期から定期的な躁鬱にも悩まされていた。躁鬱に悩まされたことのある人は分かると思うが、躁のときと鬱のときで、まったく同じものを見ているはずなのに、その質感も受け止め方もまったく異なるのである。

こうした経験を繰り返し重ねてくると、目に見えるものの“確からしさ”を信用することができなくなる

中高生頃から存在論的な不安にさいなまれることが多かったし、今でもその傾向は多少残っている。結局2021年に大学院に入って社会学のPhDを目指したのも、こうした存在論的不安とうまく付き合っていくために社会学の知が何かしら役に立つだろうという漠然とした期待があった。ミルズは社会学を学ぶことによって得られる能力として「社会学的想像力」を挙げ、その定義を以下のように記している。

(社会学的想像力とは)人間とは隔絶されたような客観的な変化から身近な自己の親密性へと眼を移し、そして両者のかかわりを見ることのできる能力である。

引用:社会学的想像力

つまり、社会学を学ぶことで、身近な個人的な出来事をより広い歴史的・社会的文脈と結びつけて考えられるようになる、ということである。

僕はこの視点に非常に救われた。僕が悩んでいること、感じている不安は、決して僕個人のものではない。むしろそれが社会的、歴史的な構造のなかで「なぜ」発生しているのか、それは何を意味しているのかを探究することで、僕の視点が相対化され、ちょっとは生きやすくなるだろうと感じていたのである。


話がそれたが、僕の関心を今一度言葉に表すと、おそらくこんな感じになる。

個人や共同体が独自の世界観や価値観を育むプロセス、その世界観・価値観、そこから見える光景

このノートのタイトルにつけた「ヴァナキュラーな日常」、そして副題の「いつもとちょっと違う角度から見てみる」というのもまさに僕の関心を体現している。

ヴァナキュラーという言葉の由来は、インド―ゲルマン語系の「根づいていること」と「居住」からきており、さらにその由来はラテン語のvernaculumという用語から意図されたものである。すなわちヴァナキュラーとは、その土地ないしは、その集団ごとの暮らしに根ざした固有の領域を指している。

ヴァナキュラー vernacular

人は常に隣にいる他者と同じ視点を共有しているとは限らず、物事の捉え方や価値基準や社会や集団によって異なる。そして、各々の価値に基づいて生活や日常が自然発生的に形成されてきたがゆえに、地域固有の文化や民俗が形成されている。これが世界の多様性であると同時に、愛おしさの源泉だ僕は思っている。


さて、2024年は、この関心に沿ってあらゆる取組を展開していく。

まずはムラツムギ。2019年に立ち上げて以来長く細く活動を続けてきたが、コロナも明けていよいよ本格的にマネタイズしていく時期に来ている。「変化にやさしく」というモットーは、ある意味僕のコアバリューの裏返しでもある。個人や共同体の独自の世界観・価値観を愛するからこそ、それらが変化に晒されたとき、どうしていけばいいかをサポートしたい。今年はそうしたプロダクトもリリースさせていく。

そしてPublic Meets Innovation。同じく2019年からはや5年目に差し掛かろうとしている。Legalチームがうまくいっているおかげで、キャッシュも安定的に回っている。僕が所属するPMI thinktankの強みは、えげつなく鋭い社会への嗅覚を持った石山アンジュたちと、僕やインターンで関わってくれている上野さんのような社会学的なトレーニングを受けた人間が共同でプロジェクトに参画することだと思う。

ぼくなりのPMIでのミッションは、個人と社会を新しいかたちでつなぎ合わせること

これまでバラバラだった、もしくは単一的にしか(市場原理など)繋がれていなかった両者を異なる視点から多面的に繋いでいくことで、新しい構造が見えて来たり、分析視角を得たりすることができるのではないかと思う。
今は民主主義に関するプロジェクトを進めているが、これも楽しみだ。今年はthinktankとして一定のキャッシュフローを回していける体制を整えながら、新たな知見を社会に提示していきたい。

第三は博論の執筆。4月からはD3になり、いよいよ本格的に博論提出準備が始まる。9月の中間報告に論文を出すこと、それに合わせて投稿論文を2本出すこと、の2点が今年の目標。これに関してはやるしかないので、とりあえずここで宣言しておく。

第四はSNSの更新。正直あんまり得意ではないが、留学前、もっとも活発に動いていた時期に、動いて発信すると仲間が増える、という法則に気づくことはできた。コロナを経て少しおろそかにしてしまっていたが、もう一度アクセルを踏みたいところ。

最後に、年末にとある新しいプロジェクトへの参画の打診をいただいた。上のコアバリューにも非常に近い、とても魅力的な仕事だ。これについてもまた一本記事を書きたいが、いつまでも準備体操をしていても仕方がない、「僕の問い」に応えていく時期に来ているのでは、と強く感じる。

2024年はそうした一歩を踏み出せる年にしていきたい。

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