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やさしさを強要しない世界

みんながやさしい気持ちでいられたら、本当にそれは理想的な世界だと思う。僕も常にやさしくありたい。しかしそんなことできるんだろうか。


SmartHRさんのCMを見た。僕はここに関わった人たちを知っているし、以前からここに繋がるメッセージを聞いてきた。この映像が見た人にどう伝わるのかは計り知れないけれど、ほんとうに素晴らしい内容でまとめられていると思う。まだまだこれからだろうけど、これまでの活動のひとつの集大成に感じた。

気持ちに頼る危うさ

「仕組み」と「やさしさ」については、ずっと僕も考えてきている。僕は「仕組み」という対象に魅力を感じて今の仕事をしている。一方で「やさしさ」に代表されるような「気持ち」に関してはすごく慎重になっている。

それは僕が「気持ち」のコントロールが下手で、それがいかに難しいのか知っているからだ。そして自分の知りうる限り、完璧にコントロールできている人を知らない。むしろ人類は「気持ち」をコントロールできない生物だと思っている。

「仕組み」で解決できるであろうことを「やさしさ」という「気持ち」に頼るということの危うさを改めて考えたい。

常に誰にでも分け隔てなくやさしく振る舞える人なんて本当にいるのだろうか。それに近い印象を周りから持たれている人でも、何かの病気や、身内の不幸や、精神的になにか悪い影響が起こったり、追い詰められる状況になってしまった時、その人は「やさしいまま」でいられるだろうか?むしろ僕が問いたいのは『そんな状態の人にまで「やさしさ」を要求するのか?』と言うことだ。それはかなり残酷でグロテクスに思う。

やさしさで仕事させない

人は常にやさしくいられるわけではない。「気持ち」というものは常に波のように動いていて、そこを定数化するのは設計として良くないことだと思う。僕は仕事では執行役員として品質を診ることをしているが、この「気持ち」に頼って仕事をしてほしくないのである。それは品質のムラになるからだ。だから仕事に対する姿勢においては「やさしさ禁止」というフレーズにもとても共感している。

普段の振る舞いでやさしさを発揮するのは大歓迎だ。でも、もしも「やさしくできない状況」「人を思いやれない精神状態」だったとしても、それを許容できる世界を作りたい。大切な人に何か心配事が起きたときに「そんなことに気を取られてないで、目の前の人にやさしくしろ!配慮をしろ!」なんて誰が言えるだろうか。「やれる範囲で良い」と言ってあげたい。

その「やれる範囲」を許容し、それで且つ目の前の人が困らない状況にするのが「仕組み」だ。この話は障害者差別解消法の「合理的配慮」と「環境の整備」の話にも繋がる。配慮を求められたり、様子を伺ってから対応するのではなく、予め「頼られない状況」「やさしくしなくても大丈夫な状況」を作ることでいろんなことが解決するはずなのである。

それこそが僕の考える「やさしい世界」だ。

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