模索する日々

独立時計師の存在を知り夢中になった私は、さっそく時計業界に関われる仕事を探し始めました。
村上龍さんの書籍「13歳のハローワーク」には時計学校で学ぶのがおすすめと書かれていましたが、そんなお金はない。
バイトも辞めたいと思っていたし、働かないと生活が出来ない。
当時は公団に両親と暮らしていましたが、一日も早く抜け出したい場所でもあったので、自分で稼げるようになりたいと思っていました。
収入を得たい、でも何でもいいわけじゃない。
時計業界で働くという以外に道は無い。

なかば強迫観念に駆られ求人誌を読み漁りますが、業界がニッチなのか求人自体があまりなく、悶々とした気持ちでバイトを続けていました。
バイトにも身が入らず、またしても怒られ続ける日々が始まります。
せっかくやりたい事が見つかったのに、なんでこんな惨めな思いをしているんだ。
国内で時計を製造しているのは大手メーカーばかり。町の時計屋がやっているのは時計の販売と修理。
販売に関わっても時計が作れるようにはならない、時計の構造を知らないことには始まらない。
働くなら修理の仕事をしたい。

あまりに求人がないのでお金を貯めて時計学校へ行く事も検討しました。
当時国内にあった時計学校は東京と滋賀の二校のみ。
滋賀にある近江時計眼鏡宝飾専門学校のほうが学費が安かったと思いますが、それでも三百万以上必要で手持ちはゼロ。
貯めてやろうと、日当一万出る荷上げのバイトを一度やってみましたが、朝早すぎるうえにみんな怖いし缶コーヒーと昼飯代を差し引くと七千円ぐらいになるしですぐに諦めました。

おれには正攻法は無理だ、働きながら時計製造技術を身に付けて独立時計師になってやる。

これしか無いと腹を括りました。すると、運良く新聞の求人欄に百貨店の時計売り場の修理受付の求人があるのを見つけました。
そこには二十歳以上の募集とあり、まだ十九歳だった私は新聞の求人を綺麗に切り取り大切に保管しました。
そして二十歳を迎えた瞬間に電話して面接をさせていただくことになったのです。

面接の際、求人掲載日を過ぎてるのに何故いま応募してきたのかと聞かれ、二十歳になるのを待っていましたと伝えると、正直ものやな、と言って気に入ってくださったのを覚えています。
これが強く願えば未来が変わることを知った初めての体験でした。

しかし、困難はまだ始まってもいなかったと後になって思い知ることになるのです。

これは二十歳の時に抱いて一度は諦めた夢を叶えようと動き始めた四十歳の物語。

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