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現代教育の迷走

現代における中等教育は大きく道を外してしまっていると私は考えている。社会全体が誤った価値観を持ってしまったことにより、個人が違和感を持ったとしても上書きされ、多くの人がそこから抜け出せないまま大人になっているように思う。そうして育った思考停止した大人が子どもへ不適切な命令をすることにより、また次の世代の子どもも不適切な価値観を形成していると推察している。最近ではブラック校則の見直しが話題になるなど、やっと少しずつ閉鎖されていた教育界メスが入ってきたように見えるが、まだまだ根は深い。子どもへの大人からしがちな命令「勉強しなさい」と「みんなと仲良くしなさい」を軸に考察をし、一つの結論にたどりついた。私の結論は「あなたは〇〇しなさい」が不適切で、「あなたも〇〇しなさい」は適切であるというものである。「子どもは天邪鬼だから」という理由を付けて、「〇〇しなさい」が不適切だという論旨の文章をいくつか目にしながら、違和感を持ち続けていた。私は世間の理不尽に曝されていない子どもたちはとても素直だと考えている。大人が子どもによかれと思って「〇〇しなさい」と言って響かないのは、子どもが天邪鬼だからではなく、大人に原因があると考えた。現代教育の迷走として、思考停止して「〇〇しなさい」を続け、今度はそれをやめ、何も強いメッセージを出せない状態に迷走しているように見える。本稿がそんなモヤモヤを解消する一助になれば嬉しい。


なぜ「勉強しなさい」は子どもに響かないのか


勉強は子供の権利であり、義務ではない。「義務教育」=「子どもは学校に通わなければならない」=「勉強しなければならない」と考えられていることがあるが、大きな間違いである。親が子を労働力として時間を拘束して利用するのではなく、学校に通わせる義務があるのが日本において親に課せられた義務教育である。この段階から勘違いしていると、悪気なく子どもへ「(憲法で定められているのだから)勉強しなさい」と言ってしまう大人が出るのだろう。目的も恩恵も示さずに命令されたら嫌がるのは当然の話だ。


法的な問題とは別によく聞く意見が「将来のために勉強しなさい」だ。高校生くらいまでの子どもが勉強をしないと、そんなに将来不幸になるのだろうか。自分自身が勉強をしなかったことが原因で不幸になったという体験から「子どものうちに勉強したほうが良い」と考える大人がいるとしよう。しかし、その大人が本気でそう考えているのであれば大人になってからでも勉強をするのではないだろうか。そして大人になって何かを学ぶ姿を見せられれば、それは子どもにとても良い影響を与える。しかしそんな大人が多くいるようには思えない。自分自身が勉強しなかったことを後悔しているくせに、そこから行動に移さずに子どもに対して「勉強しなさい」と強制するのは矛盾している。そんな矛盾した行動をする大人の「勉強しなさい」を聞いても子どもの心には何も響かない。むしろ目の前に反例がいるのだから、騙されているとしか考えられないだろう。不幸のどん底で何かを学ぼうとする気力体力すら微塵も残っていない人もいるかもしれないが、そういった人はおそらく子どもに接して勉強がどうこうと言う機会はないと推察できる。もしかするとその「何かを学ぼうとする気力大量すら微塵も残っていない」状態に、子どもの教育の最も関わる教師が陥っているのかもしれないが。


別のパターンとしては、自分自身が勉強をしなかった経験を持ちながら、そこそこ幸せに過ごしている大人が「勉強しなさい」と言う。これこそもっとも危険な思考停止だといえる。「子どもは勉強するもの」という固定観念により、理由も目的も考えないまま「勉強しなさい」と言う。自分が勉強をせずそこそこ幸せになっているという反例を示しながら「勉強しなさい」と言うなんて、子どもに矛盾を指摘されたら何と言い訳をするのだろう。胸を張って自分自身が不幸なんだと語るのだろうか。それこそ子どもが将来に期待できずに成長してしまうので、やめてもらいたい。そうして勉強をする目的を見いだせない大人が、目的については思考停止したまま「どうすれば子どもは『勉強しなきゃ』と考えるようになるだろう」と手段に頭を悩ませる。せめて悩むのであれば「どうすれば子どもは『勉強したい』と考えるようになるだろう」と悩んでほしい。その視点になれば学ぶことの先にある楽しみについて大人も一緒に考えることができるようになる。子どもの目線に立てば、目的のない命令は受け付けたくならない。


一方で、逆に振り切って「勉強しなくてもいい」さらには「勉強なんてしないほうが幸せになれる」と主張する大人もいる。前述の「勉強しなさい」と連呼する大人よりはマシである。「勉強しなくてもいい」と主張する大人は大概、自分自身があまり勉強をしてこなかったか、強制された勉強により学びの楽しさに気づけていない。個人としては遺伝的な影響も踏まえればきっと、勉強熱心にならないほうが幸せになれる人もいる。しかし必要十分な関係ではない。国際社会において「勉強しなくてもいい」が蔓延してしまった国は、そうでない国に後れを取るだろう。他人事のように書いているが、今の日本がまさにその危機的状況だと私は考えている。


大学や高校で単位を与える側の大人の声としては「この単位が欲しいなら四の五の言わずに勉強しなさい」と言いたくなるかもしれない。それも命令するほどではないのではないだろうか。単位を認定する側の姿勢として、ただ学ぶ気が無い学生がいれば単位を認定しなければ良いだけの話で、脅してまで学びを強制するのは何かが間違っている。提出物を出さない生徒を追い回し、監視してやらせることで誰が幸せになるのだろう。満足するのは、子どもの成長を度外視して通知表の数字にしか興味を持っていない親だけである。課題を無理やりやらせることは、生徒の学ぶ意欲をそぎ、教師の仕事を増やす。授業の時間だけでは物足りず、「今の自分に合った課題をください」とお願いしてくる生徒に教師が渡してあげるくらいの位置づけが適切だと私は考える。課題の達成度についても、単位の取りやすさが学校の人気に直結するからといって、規定の内容を習得できていない学生に単位をプレゼントするのは互いのためにならない。さらには、次のカリキュラムを挙げながら「これができないと次で苦労するぞ」といった脅し教育は子どもたちの学びのモチベーションを深刻なほど歪めてしまう。習得できなかったことであればまた次の年にやればよいという制度があるにもかかわらず、形だけの単位習得にこだわる人がここまで増えてしまったのはなぜなのだろう。本人の成長無く単位が認定されるのと、何年かけてでも本人が成長することのどちらが価値があるかを考える社会になってほしい。迫りくる受験を脅し材料にしながら行う先取り教育という名の毒に曝され続けた子どもたちは、学びの目的を見失うだろう。学びを強制された子どもたちは、課題をやり忘れたことについて教師に対して「すいませんでした」と言う。冷静に考えれば課題をやらなかったことで生徒が教師に謝ることなんて一つもない。残念なことに、自分が学ぶために設定された課題を、契約した仕事を遂行するかのごとく、不適切な義務感に駆られて取り組むと謝るという行為につながってしまうのかもしれない。「勉強しなさい」を単位という報酬を与えるための条件にしてしまうのは不適切である。

「勉強しなさい」が響く条件


ここまで「勉強しなさい」を否定してきたが、最後にもう1パターンを考察する。ところで、本稿をまとめようと考えた当初は、子どもに対してすべての「〇〇しなさい」といった命令は不適切なのかと考えて文章を書き始めていた。そう考えながら、4歳の娘に対して食事の後に「お皿を自分で片付けなさい」と言っていることに気づいた。未熟な4歳児に命令をせずに放置すれば、娘の自立は遠のき、親の片付けの手間が増える。やはり、「○○しなさい」というべきシチュエーションだと思える。同様に、玄関の靴を揃えたり、買い物の際にいくつかの商品を取ってきてカゴに入れさせたり、思い返してみればできることをさせるようにしていた。たまに「やだー」と拒否するし、やってみて失敗すると不機嫌になって泣き、うまく達成できると大喜びする。これは子どもの成長に有意義なトライ&エラーであることは間違っていないと考える。また、危険回避のために「道路は端を歩きなさい」「階段では手すりを持ちなさい」も伝えるべき命令である。やはり大人が子どもに命令口調で伝えること全てが悪いわけではない。


これらを踏まえたうえで「自分自身が勉強をしてきて幸せになっている大人」が言う「勉強しなさい」について考える。最後まで考察しなかった理由は、自分自身の幼少期を振り返りながら出会った大人を思い出してカテゴライズしたため、出会ったことのないパターンを考えられなかったからだ。自身が日々学び続けて幸せな人生を送り、接する子どもに「“あなたも”勉強しなさい」と言ってくれる大人に出会えていたらと想像すると、素直に勉強したくなったように思う。つまり、「勉強しなさい」という言葉を使う大人自身がまず本気で勉強することを実践して、実感を持ってそうすべきだと考えれば子どもにも良い影響のある言葉になりうる。現代で飛び交う「勉強しなさい」のほとんどが、自分自身が学ぶことの意義を理解せずに発する言葉であるがゆえに、子どもに悪影響を及ぼしていると考えられる。勉強は他人に強制されるものでなく最高に自由な遊びである。大人がまずその楽しさに気づき、子どもに大人自身が学ぶ姿を見せることが、望ましく学び続ける子どもを育てることができると私は確信している。そのうえで自信を持って「勉強しなさい」と言える大人が増えなければならない。


「みんなと仲良くしなさい」はいじめを引き起こす

いじめは許されないことであるが根絶は不可能であると私は考えている。進化の過程で人間においても思考の傾向と生存率についてバイアスがかかると想像でき、いじめをする人間はおそらく生存競争に勝つ可能性が高い。他者を傷つけ、虐げることに躊躇いを持たず、自身を守ることに特化した性格の持ち主がいじめを先導する。残酷だがこうした人は人間社会における生存競争においては有利な形質といえる。そんな一定数の心無い人間がいることを大人は理解し、社会的に付き合わざるを得ない状況においては、一定の距離を持って付き合う術を身に着ける。それなのに、子どもに対しては誰にでも仲良くしろというのは矛盾している。集団生活を営む中には深くかかわると自身に危険が及ぶような人間が一定数存在し、そんな人間とも付き合っていかねばならない社会的状況も生まれる。子どもの社会においても同様の状況は起こりうる。そうであれば、博愛主義はいじめの格好の餌食となる危険な思想であり、子どものうちに他人との適切な距離感を知ることこそ将来のためになる。さらには、子ども時代を幸せに過ごすためには「みんな仲良く」を目指して絶望するよりも、適度なウソをつきながら楽しく毎日を過ごす術を大人が教えてあげるべきではないだろうか。裏切られ続けても信じぬいて幸せになれる道をドラマや小説では描くかもしれないが、現実はもっと残酷だ。みんなと仲良くなれない自分自身を嫌悪し、本気で信用しても裏切られることを経験することで子どもの自己肯定感は地に落ちてしまう。他人をそう簡単に変えることはできない。それを理解し、自分自身が変われる範囲で変わることで集団生活の中で上手く立ち回り、幸せになる術を子どもたちに身に着けてもらいたい。そのためには「みんなと仲良くしなさい」は逆効果である。誰に対しても「仲良くすべきだ」と思考停止するのではなく、相手をよく見てどれくらいの距離感で付き合うかをその都度考えられるように教育するのが大人からの正しいアドバイスだろう。つまり、「勉強しなさい」の場合と異なり、おそらく全ての大人が「世の中全員と仲良くするなんて無理」と分かっている。だから「みんなと仲良くしなさい」が効果的になるわけがないと私は考える。


今の私を知る人からすれば信じてもらえないことが多いが、私自身は小学校・中学校といじめを受けてきた。直接殴る蹴るもあったし、無視されたり、物を壊されたり机に落書きされたりした。疑うことなく誰もが「みんなと仲良くしたいと思っているんだ」という前提の下で警戒心なく行動し、騙され、裏切られていじめの標的となった。大人から「嘘はついてはいけません」と言われ続けていた。しかし、いじめられずに上手く世渡りをしている人たちは、みんな嘘をついて自分を守っていたことに気づいたのは、いじめの波が去った後だった。私の場合、いじめに対抗しようと始めた剣道がたまたまある程度身に付き、いじめっ子たちがたまたま気が変わってくれて流れが変わった。幸運だったと思っている。しかし、そんな幸運に巡り合えずに苦しむ子供たちを生む原因は、大人が押し付ける理想論ではないだろうか。正義感の強い大人が電車でマナーの悪い他人に注意することがあっても、もし相手が酔っぱらって暴れる筋骨隆々の男なら見て見ぬふりをするのが正解だろう。どんな立派な信念を持っていても、とるべき行動は状況に応じて変えるべきだ、と今は考えられる。「横断歩道では車は必ず止まってくれるはず」という理想だけを伝えるのではなく、「ルールを守らずに歩行者がいる横断歩道に突っ込んでくる車もいるかもしれない」と理想以外も教えるのは、生きるために必要なことである。人間関係においても、横断歩道に突っ込んでくるドライバーのような人間がいることを想定しておいても良いのではないだろうか。「みんなと仲良くしなさい」の危うさに多くの大人が気づいてほしい。


どんな大人でも子どもに言える「〇〇しなさい」

ここまでの考察と矛盾することなく、生活に関わることや、安全管理について子どもに命令してそれが響くのは、大人がやっているからに他ならない。つまり、自分が実践して初めて「〇〇しなさい」の効力が得られるというのが私の結論である。そう突き詰めていくと、未熟で人のお手本にはなれないと思えるような大人は「私には何も言えない」となるかもしれない。しかし、ただ一つ、子どもに対して年長者の大人は「生きなさい」だけなら胸を張って言える。自分自身が実践していないことを偉そうに命令するのではなく、素直に自分ができることを子どもに伝えれば良い。現代教育が道を誤ってしまったのは、大人が言う権利もないような余計なことをあれこれ言い過ぎたからだと考える。そして相対的にいちばん大切なことを伝える機会が減ってしまった。「生きなさい」という何より大切なことはどんな大人でも子どもより先行して実践していることであるので言う権利があり、必ず響く。生きることだけは選択を誤ってからやり直すことができない。その選択を今、この瞬間まで誤ることなく続けてきたのであれば子どもに対して自信を持って「生きなさい」と言えるはずだ。

あとがき

日本の凝り固まった教育界を変えるために「〇〇しなさい」を撤廃するのは荒療治として一定の効果がある。しかし、本当に強い意志を持った次世代を育成するためには、もう一歩進み、教師も親も自信を持って「〇〇しなさい」と言える確かなものを持つべきだ。

思い返してみれば、私自身は躊躇いなく命令口調の強い言葉を連発していた。クラス開きで「道草を楽しめ」と言い、ことあるごとに「当時者意識を持て」「自分で考えろ」と言い続ける担任教師をしてきた。元教え子たちからもらうコメントを信じれば、その路線は間違っていなかったと思っている。

何度も考察を推敲して、他人が読むことを前提に自分の考えをまとめるのはとても有意義だと再認識した。冒頭に書いたモヤモヤを一番解消できたのはおそらく私自身。これでスッキリした頭で、これからも強気なメッセージを出し続ける教師をやっていけそうな気がする。

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