島田裕已著『『人間革命』の読み方』を読んで

昨年末、KKベストセラーズより島田裕已著『『人間革命』の読み方』が刊行されたので読んでみた。読み進めてしばらくもしないうちに「やはり」という場面に遭遇した。それは突き詰めて言えば論理の非一貫性である。そして、これは島田本の特色(少なくとも日蓮関係に限れば)といえるだろう。


◆創価学会授与の本尊について


島田は創価学会の本尊について次のように記す。

本尊とは、その中央に「南無妙法蓮華経」と大書された日蓮自筆の曼陀羅を書写したもので、会員はそれを「御本尊」と呼んでいる。(P19)


「日蓮自筆の曼陀羅」という表現は適切とは言えないだろう。現在、創価学会の会員に授与されている本尊は日蓮正宗大石寺第26代・日寛が書写した本尊である。日蓮正宗の見解は日寛は勿論、歴代の法主は弘安2年10月12日造立の『本門戒壇の大御本尊』(所謂板漫荼羅)を書写したものとしている。

ここで問題となるのはこの板漫荼羅は偽作説があり、日蓮正宗系以外では偽筆としていることである。板漫荼羅偽作説については島田も当然、把握していて『民族化する創価学会』の中で次のように記している。

このメモを素直に読めば、日達は、板曼荼羅が偽物であることを認めていたことになる。(中略)事実は河邊メモに記されている通りなのであろう。日蓮正宗の前法主である阿部日顕は、その事実を知っていた。ただ、法主という立場上、おおやけには、そのことを否定せざるをえなかったのである。(『民族化する創価学会』P195)

島田は『民族化する創価学会』で10ページ(p186~196)を割いて偽作論に言及しており、偽作説に肯定的である。何より島田は『民族化する創価学会』の中で、

板曼荼羅が本物でないということは、現在、創価学会が本尊として学会員各家庭に授与しているものも、偽物ということになる。(『民族化する創価学会』p195)

と明記している。そうであるのに何故に「日蓮自筆の曼陀羅」となるのだろうか。島田は現在は真筆説へ転向したということだろうか。だが、仮令そうであっても、問題の板漫荼羅は真偽論が喧しい本尊であるから真偽論があることくらいは記しておくべきだろう。


◆日蓮遺文の呼称

島田は戸田城聖が妙悟空の名で書いた『人間革命』について次のように記している。

戸田による『小説人間革命』は、いったい誰が執筆したのだろうか。(中略)『小説人間革命』において、日蓮の残した文章が、「御遺文」と呼ばれている箇所がある。日蓮正宗、そして、創価学会では、御遺文とは呼ばず、必ず「御書」と呼ばれるのだ。(P185)

これも島田の短絡的な断定だ。確かに日蓮正宗や創価学会において日蓮遺文は「御書」との呼称が常用されている。だが、島田は別のところでは、

創価学会、日蓮正宗では、基本的に御書という表現を使う。(P158)


と記している。「基本的」と「必ず」の意味合いは全く異なる。島田本にはこうした論理の一貫性のなさが目立つ。それはともかく、日蓮正宗系諸教団において「御書」以外の呼称が全く用いられないかといえばそうではない。その一例を示そう。

日蓮聖人御遺文(『牧口常三郎全集』10-P189)
日蓮聖人御遺文月水御書(『牧口常三郎全集』10-P189)
此の御遺文(『牧口常三郎全集』10-P201)

これらは牧口常三郎が獄中での取り調べの中で日蓮正宗の教義等を説明する際に用いたものである。

戸田城聖の場合はどうだっただろうか。『若き日の手記・獄中記』には次のようにある。

御書(日蓮聖人遺文集)ダレカラカ借リテ下サイ。(『若き日の手記・獄中記』P128)

戸田は「御書」と呼んでいる。「(日蓮聖人遺文集)」は編集にあたって加えられたものである。

この頃の遺文集としては縮刷遺文として有名な『日蓮聖人御遺文』や『昭和新修略註日蓮聖人遺文集』や縮刷遺文の誤謬を訂正した『日蓮聖人御遺文全』等があり、戸田が差し入れを望んだのが何れであったのかは分からない。

ただ、『牧口常三郎全集』によれば、牧口が読んでいた日蓮遺文集は加藤文雅編『日蓮聖人御遺文』であった(10-P234)。

創価学会の御書発刊は昭和27年(1952)なのだが、日蓮正宗では昭和4年(1929)に佐藤慈豊が『日蓮大聖人御書新集』を刊行している。これには大石日應の本尊が掲載されていて、実質的には日蓮正宗公認の遺文集であったといえる。しかし、牧口は『日蓮大聖人御書新集』を用いていない。

入獄前から—つまり、創価教育学会の創設当初から牧口が『日蓮聖人御遺文』を用いていたのであれば、戸田もまた牧口と同じ『日蓮聖人御遺文』の差し入れを願ったものと考えられるだろう。

人間はその状況によって言い方を変えることがあるので、私は戸田が「御遺文」と書いたとしても奇異とは思わない。むしろ、戸田の読んでいた遺文集類からすればあり得ることとも思える。

ともあれ、『人間革命』に「御遺文」とあることを論拠として作者を戸田ではないとするのはあまりにも薄弱な感が否めない。


◆呼称の定義づけ

私は先に「論理の非一貫…島田本の特色」と記した。その所以は、本書のみならず他の島田本でも論理の一貫性のなさが見られるからである。例えば、『ほんとうの日蓮』には次のようにある。

日蓮は、信徒から日蓮大聖人と呼ばれる。他の宗祖たちの場合、大聖人と呼ばれることもあるが、その機会は限られている。ところが、日蓮は必ず大聖人と呼ばれる。そのことが、「大日蓮展」という呼称の背景にあるのは間違いない。(『ほんとうの日蓮』P19)

この『ほんとうの日蓮』は福神研究所が開催していた日蓮遺文の勉強会が土台となっている(『ほんとうの日蓮』P8)。この福神研究所は島田も「日蓮宗僧侶の集まりである福伸研究所」と記すように日蓮宗僧侶によって構成されている。

日蓮宗での常な呼称は「日蓮聖人」である。「お祖師さま」「日蓮大菩薩」「日蓮大聖人」という呼称も使われることはあるが、それらは稀な事例である。

ところで、島田は『ほんとうの日蓮』の中で次のように記している。

高木の書いたものを見ても、日蓮を日蓮聖人と呼ばず、つねに日蓮と呼んでいる。小松の解題で、日蓮聖人と呼ばれているのとは対照的である。(P162)


「日蓮は必ず大聖人と呼ばれる」と記しながら「日蓮を日蓮聖人と呼ばず」「日蓮聖人と呼ばれている」と記している。これこそまさに「論理の非一貫性」の典型だろう。

画像1

島田は日蓮は日蓮大聖人と呼ばれるが故に展示会も「大日蓮展」と名付けられたのだと断定している。これも島田の勝手な思い込みである。この種の展示会では図録が販売され、当の大日蓮展も図録『大日蓮展』が産経新聞社から発行されている。その図録での日蓮の呼称は「日蓮」「日蓮聖人」である。島田の論理にしたがうならば図録での呼称は日蓮大聖人で一貫していなければならない。だが、現実はそうではない。


では、「大日蓮展」と名付けられた背景は何だろうか。その解は図録に記されている。図録の「ごあいさつ」には次のように記されている。

今回の展覧会は、その日蓮聖人の立教開宗七百五十年を記念して、日蓮諸宗の寺院に伝わる聖人ゆかりの品々、法華信仰にまつわる美術品、さらには、宗門に帰依した多くの芸術家たちの作品を取り上げ、一堂に展示しようとするものです。このように門外不出の秘宝も含め、百六十件余の美術品を集めた大規模な展観は過去に例がなく(『大日蓮展』)

大日蓮展は東京国立博物館・日蓮門下連合会・産経新聞社によって主催された。ところで、日蓮門下連合会による展示会としては昭和56年(1981)に開催された日蓮聖人展がある。図録によればこの時の展示は110点だったようである。それに比すると大日蓮展は161点で51点増えていて、確かに「過去に例がな」い「大規模な展観」であった。要するに空前絶後の大規模な日蓮展というのが「大日蓮展」と名付けられた所以であろう。

「日蓮大聖人」との呼称を常用するのは日蓮正宗系諸教団である。島田は『創価学会』をはじめ幾つかの創価学会研究本を執筆しているので、島田の中では日蓮=大聖人という呼称が固まっていたのかもしれない。だが、その日蓮正宗系諸教団でも「日蓮大聖人」以外の呼称が用いられることがある。

例えば、堀日亨(大石寺第59代)校閲・中村徳之進著『仏教てほどき』では「日蓮聖人」との呼称が呼称が用いられている。また、堀米日淳(大石寺第65代)は「日蓮聖人」「聖人」との呼称を用いることがしばしばあった。これは『日淳上人全集』を読めばすぐ分かることである。

島田の「必ず~」という定義づけは疑ってみる必要がある。


◆鵜呑みにせず疑うこと

昨年末に北林芳典著『最蓮房と阿仏房』が刊行された。その帯裏には次のようにあった。

何が真実で何が虚偽か。権威に委ねることなく御書に基づき自らが考えなくてはならない。(『最蓮房と阿仏房』)

まことに至言である。

本書にしても著者の宗教学者という肩書に惑わされることなく、自らが資料に当たりその成否を判断していかなければならない。それこそが学問が深化していくための基礎的作業なのである。

思いのほか分量が多くなってしまった。

ひとまずこれにて擱筆することとする。


付記

2018/2/6 若干の加除訂正を行った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?