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vol.7 玉子豆腐

  初夏になると、卵料理の献立が茶碗蒸しから玉子豆腐に変わりました。後々知るのですが、私の修業先では、基本的な卵料理は全て一年目に習得できるようになっていました。
 日本料理でいう基本的な卵料理は茶碗蒸し、玉子豆腐、ゆで玉子(半熟玉子)、温泉玉子、出汁巻き玉子でしょう。これらの料理の違いは、重要度の順に道具、温度と時間(調理時と提供時)、形、出汁の分量、といった4つの要素によって生まれます。そしてこれらの要素が卵料理の構造的なレシピになります。

 この意味で茶碗蒸しと玉子豆腐の差異は主に提供時の温度と時間、形、出汁の分量になりますので、仕込みの際には良く似た工程を辿ることになります。見方を変え、この差異を五感情報に置き換えた場合には、差異の小さなものから順に、聴覚、味覚、嗅覚、触覚=視覚となるのではないでしょうか。そう考えると、この二つの料理の差異において一般的により重要なことは、視覚情報と触覚情報であり、言い換えると見た目と舌触りと温感であると言えるでしょう。

 以上の観点から、この記事は一般的なレシピではなく、料理の基本的構造から得られる五感情報と、五感情報が心理にどのような影響を与えるのか、この心理的レシピを私の体験である一例を持って探っていきたいと思います。そしてこのレシピそのものはある程度のエビデンスと仮説によって作られたものであることをご承知おき下さい。

 馴染みが無く分かりにくいでしょうからもう少し説明を付け加えさせていただきます。一般的なレシピが料理を口にし、五感を働かせて喉元を通過するまでの体性神経系の反射と反応を主に楽しむもの=外骨格筋をどの方向にどの位の力と速さで動かされるかという可視化されやすい受動的な仕掛けとするならば、心理的レシピとは自律神経系の反射と反応を主に楽しむもの=内臓筋をどの方向にどの位の力と速さで動かされるかという目に見えない動きを能動的に捉える仕掛けとなります。

 自律神経系の反射と反応について具体的に説明すると、自律神経系の動きとこれに影響を受ける血液の動きであり、その血流の先にある臓器の動きを楽しむということです。更に自律神経系の動きとは神経を走る電気の流れであり、内臓感覚の変化によって意識に上る光景に転換を生みます。血液の動きとは血圧と体温の変化であり、これを視覚的に表現するならば意識の中で生じる光の明暗の変化になります。明るさは交感神経が高まることによって、暗さは副交感神経が高まることによってもたらされます。また、この動きを触覚の一つである温感によって身体のある部分の体温が変化することでも感じられます。これらの血液の動きの中でも交感神経を高める特に大きな血流の動きは鼓膜の振動と振動による音、つまり触覚と聴覚によって分かり易く感じられる場合もあります。

 

 そしてこのレシピは、内部環境の変化を楽しむ方、或いは内部環境の変化を知り内省する方、または一人で食事をする環境にある方に向けたものとなります。特に、社会的な流れとして一人暮らしの方が増え続け、外食においても接客、調理共に機械が代替していく流れがあります。それと長寿社会を迎えるにあたり、暦年齢より生物学的年齢が注目されていく流れもあります。

 社会の中に物事が増え続けると同時に人々の意識も外部環境を観ることに傾いてきたように感じます。その結果、身体の内部環境の変化を意識する時間は減り続けてきたことになります。これが内臓の病気の発見を遅らせ、或いは人生の末期に虚しさを感じる一因になっているのではないでしょうか。本来、人は身体の内部環境をもっと深く広く感知できたのではないかと私は考えています。心理的レシピを通して、本来、人に備わっているこの内向感覚を取り戻し、自己理解を深め、食生活を自制していく習慣が心身ともに健康に過ごせる一因になるのではないかと考えています。

 多くの人にとって、これまで食卓を囲む風景は賑やかなことが多かったのではないでしょうか。その関係の中で「味わう」とは主に表情筋と骨格筋を動かすことに繋がったでしょう。表情筋は骨に繋がっておらず骨格筋に被さるように繋がっています。そのため表情筋だけで表情を作ることはできず、人がある表情を作る時には、ある一つの表情を作るにあたって必要な表情筋に繋がっている複数の骨格筋を適切に動かす必要があります。例えば、料理を美味しいと感じたり、うま味や甘味を感じたりして、にこやかな表情を作る際には頬を顕著に弛ませる方がおられますが、これは第二の骨格と呼ばれる筋膜によって、「横の繋がり」と呼ばれる複数の筋肉を弛緩的に連動させているのです。また食事の際のコミュニケーションには大抵の場合、骨格筋を動かしていることでしょう。つまり、これまでの食事は主に「感情を味わう」ものだったと言えるのではないでしょうか。

 社会の変化によって、これまでに当たり前のように「感情を味わう」ことを楽しんできた食事環境も変化するでしょう。その流れの中で心理的レシピはこれからの食事を楽しいものとする「感覚を味わう」ために徐々に必要とされるのではないかとも考えています。そしてこれは、これまでの食事のように他者との関係性を築き、それを楽しむものではなく、内向感覚を紡ぎその心理が織りなす物語を楽しむものと言えるでしょう。そしてその物語はきっと、その人の身体性と状態によって紡がれた、一つのパターンであり、また同時に唯一無二の固有のデザインでもあると考えられます。

 それでは前置きが長くなりましたが、私が修業をしていた頃に感じた玉子豆腐の心理的レシピを探っていきます。

 修業を始めてまだ数か月でしたので、新しい料理を覚えることが楽しくて仕方ありませんでした。新しい料理をひとつ覚える度に自分が成長していることが如実に感じられます。強く大きくなったかのような気分になるのです。一方で、私は仕事を覚えるのが比較的早い方でしたので、関心が次から次へと周囲に向きました。先輩たちがやっている仕事を見てはやり方を見て覚えていきます。また早い時間に出勤しては自分の仕事を早々に終わらせて、少しでも多く先輩たちがやっている仕事を手伝っていました。

 そんな気の逸った私の心を静かに押し留めてくれたのが、
1、味付けの工程
2、玉子豆腐を蒸す工程
3、出来上がった玉子豆腐を切り分ける工程
4、盛り付けの工程

にあったように思います。

 まず、味付けはどのような料理でも慎重になります。作った後ではやり直しがきかないからです。卵を溶く工程と出汁を合わせる工程までは勢い良く進められるのですが、味付けの工程に入ると、呼吸を整え味覚を研ぎ澄ませたことが思い返されます。その時、体から熱が引いていく動きが感じられます。それと同時に胸の内から感情が消え、ほんの僅かな時間、「無」を感じます。味付けは一つまみの塩以外には淡口醤油のみでしたので単純です。ですので、「無」の状態に淡口醤油で味付けされた玉子地の感覚が浮かび上がります。先輩に味付けを教わった際に記憶した心地よさを再現するために自分自身の心身を整える必要があるのです。

 玉子地を味見すると、

まず、塩味を感じます。それは反射的に内舌筋(舌そのもの、舌の形を変える筋)が感じ取る「圧」や緊張による「張り」によって強さを計ることができます。そして口全体が僅かにすぼもうとする動きをします。これは表情筋である口輪筋や頬筋のうごきによります。同時に、体が小さく驚いた動きをし、目の焦点がやや遠くなります。交感神経刺激によりやや散瞳し、集中力が高まり、胸が開くような感覚を憶えます。


次に、甘味とうま味を感じます。耳の後ろ辺りにある筋肉と下顎の筋肉が弛みます。これは舌の位置を変える外舌筋という筋肉の一つで茎突舌筋です。この筋肉が弛緩すると、リラックスした感覚になります。それは集中力が弱まり、自分と外部環境が一体化したような安心した感覚です。また身体の横に繋がりを持つ筋膜が弛緩し、体が僅かに揺れているようにも感じます。副交感神経刺激により縮瞳し視界がやや暗くなります。

 次に、内舌筋(舌そのもの、舌の形を変える筋)の一つである垂直舌筋がやや緊張し、代わりに横舌筋が弛緩し舌の幅が広がり扁平になります。口腔底からゆっくりと唾液が分泌されます。この動きを感覚的に辿っていくと体の重心が左右のどちらかの前方に沈み込む感覚を憶え、深い心地良さを感じます。

味付けの工程で上記したリラックスした感覚になった後、玉子地を流し缶に注ぎ入れます。流し缶に並々と入った玉子地を溢さないように蒸し器に入れます。これが結構な平衡感覚を必要とします。蒸し器と流し缶のサイズがあまり変わらないためです。玉子地を溢さないように入れるには集中しなければなりません。味見をしてリラックスした状態から集中した状態に移行するには副交感神経と交感神経の動きに大きな波を描かなければなりません。その為、過度な緊張を感じます。この時、心理には規律的な感覚を憶えています。

 盛り付けの際に四角に切り分けた玉子豆腐を眺めていると、正確な四角形と淡い黄色の澄んだ美しさに私の目は散瞳します。しかし、視点はやがて透き通った表情の深みへと誘われます。その動きを感覚的に表現するならば、玉子豆腐の透き通った表情の奥で底光りする冷たい光に、浮き上がり散り散りに霧散しようとする情熱を腹の底に押し留めてくれる冷静さと収まりの良い落ち着きを得たと言い表しましょうか。そして、その心のしっくりと根付いた視座から、情熱を向ける道筋が見えてくる静かなときめきを感じたのです。

 透明な花形のガラスの器に四角い玉子豆腐を盛ります。色合いとして淡く羽毛のような柔らかな黄色でありながら、形としては凛として洗練された感覚を持った四角い玉子豆腐の上には、朱と白のめでたい縞模様が描かれた腰の曲がった海老と華やかな五角形に輪切りにされた、落ち着いた深緑のオクラを盛り付けます。それはまるで、自然の中に作られた理想の社会のようにも感じられます。社会にある様々な物事が何の矛盾もなく玉子豆腐の透き通った黄色の深みに収められていくようです。私はそこに旨出汁を張っていきます。自然と社会を美しく繋ぎ合わせるように。そして、美しく作られた理想の社会が微塵も崩れないように、静かに心を鎮めながら、そっと優しく注いでいきます。

  自分で作った玉子豆腐を味見する機会がたまに訪れます。その玉子豆腐を先輩たちは私に譲ってくれました。実際に食べてみて勉強するためです。一日中走り回った調理場の仕事が片付き、一人になった時に食べていました。

 疲れている時は、つるりとして涼し気な玉子豆腐が私の火照った体から熱を引いていくように感じます。喉の渇きさえも満たされていくようにも感じます。まだ余力のある時は、なんとなく「生意気だな」と感じます。しかしいずれにしても、眺めていると、キンキンに冷えたビールを飲んで気焔を上げたい、そんな気を静かにゆっくりと、しかし確かになだめてくれているように感じるのです。

 箸を入れ口にすると、思いの外、しっかりとした固さがあることに小さな驚きを得ます。その時、血液が胸の中心から周辺へ音のない波のように拡がっていきます。そうすると胸の中心が少し窪んだような感覚を得て、小さな苛立ちが首筋から頭へと抜けていくのです。もっと優しくなめらかに、そしてそっと包み込むように疲れた私を癒してくれるのではないかとの思いが私の意識からはらりと剥がれ落ちていきます。

 私はやや沈んだ気持ちで玉子豆腐を味わいます。常に早食いを求められてきましたので、始めは味をしっかりと捉えられません。玉子地を飲んで味見した時とは味の強さが随分と違うように感じます。そこには温度差もあったでしょう。しかし食べ進めていく内に玉子豆腐を舌で磨り潰した際に味を強く感じられることに気付きます。そして時間を掛けると温度差がなくなり、より深く味わえることにも気付きます。その時、玉子地を味見した際の味だと、確かに思えるのです。

 私の体は周囲と一体化したかのような安心感に包まれます。世界は外側にはなく自分の内側にのみ存在するのだと、そんな感覚になるのです。それは、舌やその周辺の筋肉の弛緩する感覚が体の隅々まで行き渡っていく感覚に憶えるのです。そうすると、やがて体の内側から力が甦ってくる感覚を得ます。体の隅々まで行き渡った静かな波が、体の中心に向かって返ってきたかのようです。窪んだ胸は膨らみを感じ、新芽が伸びるような静かな勢いと真新しさを憶えます。

 そして、私は味の余韻から覚めた時、目に映るものがほんの少し、明るく鮮やかに見えるように感じました。器を洗おうと持った手の、一本一本の指先に確かな感触を得ます。呼吸は小さく整い、体から熱が引いています。そして視点はどこか遠くを捉えていました。

 今思うと、私はきっと、明日を見ていたのかもしれません。


 


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