雑記:器用貧乏が生んだ空っぽな自己肯定感

久しぶりの投稿になります。
日常生活でいろいろ募る部分もあり、吐き出そうと思って筆を取った次第です。

今回の内容は決して万人に理解されようと書いてるわけではないです。世界のどこかにいるかもしれない、似たような考えをお持ちの方にさえ伝わればいいと思っています。

頭の中を整理せず書いているので、駄文になると思いますが読んでいただけたら嬉しいです。

器用貧乏な自分

自分自身を一言で表すなら「器用貧乏」だと思います。
よく言えば「オールマイティ」とも言えるでしょう。

物心ついた時から自転車はひとり乗れましたし、かけっこはいつも1番でした。
勉強も学校の試験順位はいつも1桁で、全国的にも名のある高校、大学へ進学しました。
楽器、家事、コミュニケーションなど、やろうと思ったことはなんでもできました。いわゆる「お利口さん」で大人の言うことをよく理解していたとも思います。

傲慢な言い方にはなりますが、そんな青年時代でしたので自分ほど何事もそつなくこなす人を見たことがありませんでした。当時を振り返ると「他人より多才なのだ」とさえ感じていました。

ここまで読むとただの自慢のように思われるかもしれません。過去の栄光をひけらかしているのだろうと。さぞその後の人生も恵まれたものなのだろうと。
しかし、そうして得たものは「空っぽな自己肯定感」だけでした。
これがさらに私の認識を歪めていくことになります。

空っぽな自己肯定感

自己肯定感とはなんでしょう。
ここ数年特に耳にするようになったと感じます。

文字通りとらえるならば「ありのままの自分を肯定すること、その程度」だと考えます。
この前提に基づくならば、自己肯定的な感覚は絶対的であるはずのものです。
ありのままと言うことは外からの作用を受けていない状態、それ単体の状態とも言えるでしょうから。

しかし、私の場合はそうではありませんでした。

先述した「他人より多才である」という感覚は、他人との比較(相対)の上でしか成り立たない、空っぽな”自己肯定感”を私にもたらしました。それはいわば砂上の楼閣でした。
自分を肯定するためには常に他人を必要としなければならないのです。自分がどの点(またはその複数点)で他人より優れているかという物差しでしか自己を肯定できないのです。
こうして他人との比較の中でしか生きられない、私という空虚な人間が出来上がったというわけです。

そうして未だ自分が何者であるか規定できないというわけです。平たく言えばアイデンティティがないのです。空っぽな自己肯定感はその答えをもたらすことはありませんでした。

今思うこと

24歳になった今、こうして悩んでいることすら恥ずかしいと感じます。

周りが大人になっていくのに自分だけが青年期に取り残されている。
自分が何者であるかをこの歳になっても探し続けている。

私はおそらく一生この問いから解放されないまま生きていくのでしょう。なぜなら正しい自己肯定感を育む期間はとうに過ぎ去ってしまったのだから。

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