『春待つ幽霊』

 二〇一九年、明けて六日目にぼくはケガをした。自宅の階段で転んだのだ。年末には忘年会を、年明けすぐには新年会を開き、ふだんなかなか顔を合わすことのない友人たちの笑顔を目にし、そして彼ら一人ひとりの新年の抱負などを耳にして、自分も頑張ろうと、身体をふるわせた直後のできごとである。
「俺も負けちゃいられない。さあ頑張るぞ」の第一歩目を、ものの見事に踏み外し派手に転倒したのだ。右足首の靭帯を全面的に損傷し、くるぶしには骨挫傷を負うといった始末である。

 靭帯損傷と骨挫傷というと、馴染みのない者からすれば何やら大事に思われる。しかしようは、キツめの捻挫に、ちょっとしたヒビが入っただけのことである。年始早々のことなだけに──それも、あんなにも意気込んでいただけに──精神的なダメージは大きいが、あまり無理をせずに通院を続ければ、二週間ほどでそれなりに快方に向かうのだという。それを聞いたぼくは、ホッと胸をなでおろし、涙を浮かべながら整骨院の先生の話にうんうん頷いていたものである。人生初の松葉杖を仰々しく──これを上手く用いるにはある種のテクニックが必要であり、それがなければ仰々しい動きとなる──突いてまわらねばならぬものの、ほんの二週間のことだ。なんとか気を強く保ち、いまの自分の状況を笑いにさえ変えてしまい、改めて、ぼくの二〇一九年をはじめようじゃないか。そう自らを鼓舞するように、ポジティブな方向へと思考を転換し、疎ましいとさえ感じていた松葉杖は、やがて何物/何者にも代えがたい唯一無二の友となった。

 ところが、この文章を綴っている三月二十一日現在、ぼくの二〇一九年はいまだ明けていない。転倒して負った右足の怪我からようやく二週間が経とうかというところ、まさかの左足が感染症にかかってしまったのである。
 そもそも、左足への違和感は早くからあり、それは日を追うごとに強くなっていた。だがぼくは、慣れない松葉杖──二週間近くもともに生活をしていて、慣れないとは彼に対して失礼ではあるが──での生活によって軸足となった左足への負荷は避けがたく、それでちょっとした炎症を起こしてしまっているのだろう。そう楽観視し、冷却などを施しながら、だましだまし生活していたのである。この安直な見立てを、先生が肯定してくれたというのも大きい。というより、「ちょっとした炎症ですよね? そうですよね?」と、ぼくは先生の肯定の言葉を誘導尋問するように引き出していた。これ以上、足になにか問題を抱えるのはまっぴらだからだ。先生としてもこれ以上、ぼくの気分が沈むようなことを口にするのは心苦しいところだろう。そこにぬけぬけと付け込んだのである。

 しかしある夜、それは猛烈な熱を放ち、痛みと痒みによってぼくから睡眠を奪った。ただでさえ努めて平静に、改めて二〇一九年を迎えようとしていたぼくには、このことは身体的な耐え難さだけでなく、精神的にも多大なダメージを与えた。そうしてぼくは、これは整骨院マターではないと合点して、総合クリニックを受診したのだ──整骨院の先生とは信頼関係を築きつつある頃だったので、ぼくの勝手な行動とならぬよう、きちんと電話で了解を取っている──。

 この熱や痛みの原因は、先に述べたように感染症である。通常、傷口などから侵入するウィルスが、ぼくの場合は右足のケガによって左足に極端な負荷をかけることになり、そこの汗腺が感染経路となってしまったようだ。両足が機能不全となってしまったぼくは、それまで以上に仰々しい足取りで、病院や仕事先に向かわなければならなくなった。この時点で、靭帯損傷と骨挫傷を負っていた右足はかなり回復していたのだが、こちらよりも重篤な左足の症状により、今度はこの治りかけの右足を軸足とせねばならず、二週間で快方へと向かうはずだったものを長引かせてしまう結果となったのだ。なんという不条理。

 しかし、この不条理はこれだけにとどまらない。どちらの足をも完治させるべく、根気強く通院──右足は整骨院にて電波と電気による治療を、そして左足は総合クリックにて点滴と軟膏の塗布に加え、日に三度の内服薬の投与──を続けたのだが、痛みが引いていたはずの右足は疼き、左足の腫れと痛痒は落ち着くことはなく、いっこうに良くなっている実感も気配も現れない。のみならず、さらなる悲劇が訪れる。続いて右足が、左足と同じように感染症にかかってしまったのである。右足のケガにはじまって、人生で最も足の健康状態に気を遣っていたのにもかかわらずだ。なんという不条理。こうまでなると、いよいよ呪いなどの存在が疑わしくなる。

 こうしてぼくは人生ではじめて、身体的な「不自由」──それをこれまでまったく感じたことがないわけではないが、自らに圧倒的な制限を課さなければならぬ状況ははじめてだ──を背負うことになったのだ。
 二〇一九年、なぜ自分はこんなことになっているのか。宛先不明の憎悪の念を、日々こころの中でしたため、これを投函せぬよう、己を制する日々である。しかしこの憎悪の念は、自分の不幸に端を発するものだけではない。「不自由」を感じながら生活する日々の中で、これまで気が付かなかった世界の様相が、まざまざと見えてくるようになったのである。

 イギリスのある研究者によれば、私たちが満員電車で感じるストレスは、戦場にいる兵士が感じるものに匹敵するのだという。たしかに満員電車では、いつ自分が加害者になっても被害者になってもおかしくはない。これは比喩ではなく、臨戦状態とも呼べるものだろう。この戦場に、ぼくは松葉杖を突いて立たねばならないのだ。なんとも笑えぬ冗談のようになってしまうが、この状況下においてぼくは負傷兵というわけであり、おそらく健常な状態である彼らよりも神経過敏になっていて当然なのだろう。

 スマートフォンでのSNSや携帯ゲームに没頭する者、仲間たちとのお喋りに無我夢中となっている者、ヘッドホンから流れる音楽に身を揺らしている者、その他エトセトラ。もう見慣れた光景ではあるが、彼らの無関心はときに危険である。彼らがその自分たちの世界に身を委ねている間、蔑ろにされている存在があるのではないだろうか。彼らのその無視する(と受け取れる)行為は、私たちを幽霊化させる。身体が「不自由」になることによって、極限まで高められたぼくの自意識と肥大化した被害者意識の問題は、もちろん否定できない。しかし、戦場で神経をとがらせることというのは、「自己」というものをよりはっきりと意識することにほかならないだろう。
無関心とは、時と場合によっては罪悪になりうるのである。そのことに今さらながら気がついたのだ。はたしてぼくは、見知らぬ誰かのことを幽霊化させた経験がないと言い切れるだろうか。

 そして無関心な者たちの中には、明らかな悪意を感じさせる者さえある。これも先に述べた、ぼくの自意識と被害者意識の過剰さが引き起こす──まるで、幻覚のような──ものかもしれないが、また同時に、神経過敏と強固な自己認識とによって、その悪意はよりくっきりと浮かび上がってくるのだ。
 ぼくはSNS上の匿名的な──本名でアカウント登録をしているが、そこに実体はない──「つぶやき」によって、かろうじてこの世界に自分自身をつなぎとめることを試みる。もうこれ以上に気分が沈まぬよう、バーチャルな世界で無理にお道化を演じてみるのだ。ところがそこには実体がないのだから、これまた幽霊の所業なのである。なんとも虚しいことだが、ここで憎悪の念を離散させるよりは、いくぶんマシだろう。

 だが時として、見知らぬ誰かの心遣いを受けることもある。そのほんの小さな言動は、私たちを安らぎの地へと導く。ぼくの足はいずれは治るのだろう。そう信じている。しかし幽霊は増え続けていくだろう。そう断言できる。戦場──電車を降りてもすぐに極度の緊張が弛緩することはなく、それはその外側の世界にも広がっている──で人々が抱える、宛先不明の憎悪の念は、どこへと向かうのだろうか。春の訪れに胸を焦がしながら、ぼくは二〇一九年のはじまりを夢見ている。

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