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書評

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2023年5月の記事一覧

書評 #76|色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

 思うことが多々ある。光と影。白と黒。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』に限らず、村上春樹の作品には対立が存在する。しかし、それは二分しながらも、同時に一つの何かを作っていたりもする。表裏一体。淡々と紡がれる文章は流麗だ。しかし、そこには血生臭い生命力も感じてやまない。生活感の有無の共存と表現すると平易に聞こえるが、そんな印象だ。  多崎つくるとその仲間たちが作った共同体は社会における個人の写し鏡ではないか。乱れなく調和する親密な場所は美しくも、どこか不自然で脆さ

書評 #75|総理にされた男

 総理の物まねをする役者が総理になったら。この突飛な設定がまずは関心を引く。そして、複雑な中にも入り組んだ人間模様を描く政治の世界を簡素化し、魅力的な物語へと昇華してくれることをも期待した。中山七里の『総理にされた男』はその期待に十二分に応える作品ではないだろうか。  政治は複雑である。さらに突き詰めれば、その複雑さは理性ばかりでなく、人間と人間によって営まれる政治が往々にして不条理であるからだろう。そこに風穴を開ける真垣統一郎こと加納慎策の純粋無垢な志は痛快だ。舞台袖で演

書評 #74|護られなかった者たちへ

 社会の膿とも呼べる、歪みを『護られなかった者たちへ』は描いている。作中において核を成す貧困というテーマ。それを「臭い」という言葉を使って表現したことが強烈な印象を残した。腐敗する風景は眼に浮かぶよう。当然と言えるが、人間によって構成される社会も生き物であることを実感させられる。  膿と呼んだが、作中に登場する人物たちに善悪といった評価軸に振り分けることは極めて困難だ。言い換えれば、人間はその濃淡の中で生き、外的要素によって貫かねばならぬ正義が変わることも見せつける。「真面

書評 #73|ヒポクラテスの悔恨

 『ヒポクラテスの悔恨』はシリーズの魅力はそのままに、作品が持つ揺るぎない信念を読者に伝えている。死者の声に耳を傾けること。老若男女を問わず、本作で光が当たる人種の違いも問うことはない。新法解剖や画像診断など、新たな風は吹きつつも、解剖という名の真実を求める探求にはシンプルな目的を背景に、高貴な印象すら受ける。そこには私利私欲や生きている人間だからこそ持ち得る感情の濁流がなく、それとの対比があり、作品の高潔さに一層の磨きをかける。  多くの物事がそうであるように、信念を実践